メインコンテンツへスキップ
9 / 26|11分で読めます

第9章 寝不足の脳でAIに指示を出す恐ろしさ

2030年、ある病院で医療事故が起きる。原因は「AIの誤作動」ではない。AIは完璧に指示通りに動いた。問題は、指示を出した医師が72時間起きていたことだ。「AIを信じすぎた」と報告書には書かれる。本当の問題は別のところにある。

「すみません」が消える日

夜間当直が続く週がある。

当直明けの朝、電子カルテに入力しながら、自分でも気づかないうちに誤字を打っている。「mg」と「mL」を打ち間違える。小数点の位置がずれる。処方箋を確認したつもりで確認していない。

そういうとき、隣にいる看護師が「先生、これ合ってますか」と言ってくれる。僕は「あ、すみません」と言って直す。

この「すみません」が、どれだけ大切かを、最近改めて考えている。

正確な実行は、誤った指示を確実に実現する

AIは正確に実行する。

これが長所だと思われている。指示する人間が睡眠不足の状態では、「正確な実行」は「誤った指示の確実な実現」になる。

ChatGPTに文章を書かせるとき、プロンプトの質が出力の質を決める。誰もがそれを知っている。プロンプトを書く人間の脳が半分眠っている状態なら、何が起きるか。

「そんなミスはすぐわかる」と思うかもしれない。睡眠不足の脳の恐ろしさは、自覚がないことだ。

自覚なき劣化

Van Dongenらの研究は有名だ。6時間睡眠を14日間続けた被験者のパフォーマンスは、24時間完全断眠と同等まで落ちた。そして被験者たちは「自分は問題なく機能している」と申告し続けた。

眠れていない脳は、自分が眠れていないことに気づけない。

僕は夜間当直のある職業だから、これを身体で知っている。当直明けに「今日の自分は普通じゃない」と意識できるのは、普段の自分と比較できるからだ。

ずっとその状態が続いたら。睡眠4時間が当たり前になったら。比較基準が消える。

AIは「もうやめましょう」と言わない

AIを活用する環境は、「睡眠を削っても仕事が回る」という錯覚を生む。

夜中の2時にClaude相手に仕事をする。AIは疲れない。AIは「今日はここまでにしましょう」と言わない。ユーザーがどれだけ眠そうなプロンプトを送っても、丁寧に答える。

そして翌朝、寝不足の脳が「昨日の作業は完璧だった」と思いながら、その作業をベースに次の指示を出す。

ミスが積み重なる。気づかない。

当直明けの論文事件

僕自身の話をする。

当直明けにAIを使って論文のアウトラインを作ったことがある。出来上がりを見て「よくできた」と思った。翌日、普通の状態で読み直したら、論旨が破綻していた。自分が何を言いたいのか、わからなかった。

AIが書いたのではない。僕が指示したのだ。寝不足の脳で。

AIは正確に、僕の混乱した思考を文章にしていた。

増幅器が高性能になるほど、元の信号が問われる

「道具は使う人間の能力を反映する」という原則は、AIになっても変わらない。

むしろ、AIは能力を「増幅」するから、問題がより大きくなる。良い判断力を増幅すれば良い結果が出る。劣化した判断力を増幅すれば、劣化した結果が素早く確実に広がる。

朝のバーベルと、止まる思考

朝6時、僕はバーベルの前に立っている。

クロスフィットのジムは、まだ薄暗い。コーチがホワイトボードに今日のWODを書き終えたところだ。デッドリフト、バーピー、ボックスジャンプ。3ラウンド。

バーベルを握る。130kg。床から持ち上げる瞬間、思考が止まる。

文字通り、止まる。論文の締め切りも、午後の外来の段取りも、メルマガのネタも、全部消える。あるのは鉄の重さと、自分の背中と、呼吸だけだ。

この「思考が止まる」感覚を、僕は他のどこでも経験したことがない。

止まった後に起きること

止まった後に起きることが、本題だ。

ジムを出て病院に向かう。シャワーを浴びて白衣を着る。外来のドアを開ける。最初の患者が入ってくる。

その瞬間の集中力が、運動しなかった日と明らかに違う。

子どもの顔を見たとき、余計な情報が流れ込まない。「この子は大丈夫か、大丈夫じゃないか」の判断に、まっすぐ入れる。

逆に、1週間運動をサボると、外来での判断にためらいが増える。思考にもやがかかったような感覚だ。

有酸素運動がBDNFを増やし、前頭前野の機能を高めることは知られている。身体を動かすと頭が冴える、という実感には神経科学的な裏付けがある。

AI時代の最重要スキルは「身体を整えること」

AIに指示を出す仕事と、バーベルを持ち上げる仕事は、何が違うか。

AIに指示を出すとき、僕の身体はほぼ動かない。指先がキーボードを叩く。目が画面を追う。脳の一部が言語処理をする。それだけだ。

身体の大部分は使われていない。不要になっている。

AIが便利になるほど、人間が身体を動かす理由は減る。移動しなくていい。コードはAIが書く。調べるのもAIがやる。人間の仕事は「指示を出すこと」と「判断すること」に集約されていく。

でも、指示と判断を担うのは脳だ。そして脳のパフォーマンスを支えているのは身体だ。

増幅器が高性能になるほど、増幅される「元の信号」の質が重要になる。AIという増幅器がどれだけ優秀でも、元の信号を発する人間の脳が劣化していたら、出力も劣化する。

身体の状態を整えることが、AI時代の「最重要スキル」かもしれない。

運動は、身体を「道具」に戻すのではない。身体を「自分自身」に戻す行為だ。

朝、ジムで限界まで追い込む。心拍数が180を超える。視界が狭くなる。もう無理だと思う。でもあと1レップやる。

あの瞬間の「もう無理だ、でもやる」は、外来で難しい判断を迫られたときの覚悟とつながっている。

身体で「限界の先」を経験している人間は、思考でも「限界の先」に踏み込める。根拠のない確信だが、身体がそう言っている。

あなたの身体は今、「必要なもの」か。それとも「脳の容器」になっているか。

この章のポイント

  • AIの「正確な実行」は、誤った指示の場合「誤りを確実に実現する」装置になる
  • 睡眠不足の脳は自分が劣化していることに気づけない。Van Dongen研究の示す自覚なき劣化
  • AIは「もうやめましょう」と言わない。寝不足のプロンプトは寝不足の出力をきれいに出す
  • AI時代の最重要スキルは、増幅器の元信号である身体を整えること