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第11章 五感のリストラが始まっている

目と耳だけで仕事が完結することに気づいた。起きる。スマートフォンを見る。パソコンを開く。会議はオンライン。昼食はデリバリー。散歩はしない。誰とも会わない。一日が終わる。僕はその日、何を触ったか。何の匂いを嗅いだか。何の味がしたか。記憶がない。

診察室は五感の現場である

診察室では、五感をフルに使う。泣き声のトーン。皮膚の温度と湿り気。口の中の匂い。腹部を触ったときの緊張度。目の光の反射。

聴診器を当てる前に、すでに多くの情報を手に入れている。これらは電子カルテに記録されない。画像データにならない。診断に影響する。

問題は、この情報収集能力が「使わなければ落ちる」ということだ。

使用依存的可塑性。使わない感覚は縮む

神経科学には「使用依存的可塑性」という概念がある。

脳の領域は、使われるほど発達し、使われなければ縮小する。盲目の人の聴覚野が拡大するのは、聴覚への資源配分が増えるからだ。

逆に言えば、触覚を使わない生活を続ければ、触覚を処理する脳の領域は縮小する。

嗅覚を使わない生活を続ければ、嗅覚は鈍化する。

現代の知識労働者の生活は、視覚と聴覚に偏りすぎている。

AIと向き合う1日は、3つの感覚がオフ

AIは視覚と聴覚のインターフェースを通じて機能する。

テキストを読む。音声を聞く。画像を見る。それ以外の感覚は、AI操作に不要だ。

タッチパネルはあるが、圧力を感じるためにあるのではなく、入力のためにある。画面は光を発するが、温度を持たない。AIと対話するとき、人間の触覚・嗅覚・味覚は完全に休眠する。

1日8時間AIと向き合うなら、1日8時間、三つの感覚がオフになっている。

嗅覚と触覚が拾っていた診断情報

医療において、嗅覚は意外なほど重要だ。

糖尿病の進んだ患者の息は甘い匂いがする。ケトアシドーシスだ。肝不全の患者はアンモニアの匂いがする。感染している傷の匂いは、健康な傷と違う。

これらを文字で学ぶことはできる。実際に嗅がなければ、次に同じ匂いに遭遇したとき、気づけない。

触覚も同様だ。腹部の緊張。リンパ節の質感。皮膚の弾力。これらは手で触れて初めてわかる。文字で読んで「そういうものか」と理解することと、実際に感じることは、全く別のことだ。

失われた感覚が拾っていた情報は、どこへ行くのか。

デジタルには入力されない。AIは処理しない。電子カルテに残らない。

「なんとなく変な感じ」「なんとも言えない匂い」「いつもと違う触感」。これらが診断の補助線になっていた時代が、終わる。

ノモフォビアと、知覚を取り戻す数分

スマートフォンを置いた瞬間、多くの人が「なんか不安」になる。

これは比喩ではない。ノモフォビア(nomophobia)は正式な概念として研究されている。スマートフォンなしでいることへの恐怖。この状態は、コルチゾールの上昇を伴う。

スマートフォンなしでいることは、生理学的にストレスだ。

そのストレスに慣れることが、知覚を取り戻す唯一の道だ。

外来診察の合間、スマートフォンを見ない時間がある。次の患者が来るまでの数分間。以前はその時間でメールを確認していた。試しに、何もしないでみた。

窓の外で鳥が鳴いていた。廊下を歩く人の足音が聞こえた。自分の呼吸に気づいた。

たった数分で、世界の解像度が上がった感覚があった。

注意資源は有限である

注意資源は有限だ。

スマートフォンとAIが「常に最適化された情報」を届けてくれる環境では、注意は常に外部に向けられている。

プッシュ通知。おすすめコンテンツ。未読メッセージ。これらはすべて、「今すぐここを見ろ」という信号だ。

その信号に反応し続けると、自分の内側や周囲の環境に注意を向ける能力が低下する。

情報から離れたとき、身体のセンサーが再起動する

情報から離れたとき、身体のセンサーが再起動する。

空腹を感じる。体の凝りに気づく。感情の揺れに気づく。周囲の音が聞こえる。人の表情が見える。

これらは常に存在していたのに、情報の洪水に遮られていた。

スマートフォンを置いた1時間は、失っていた知覚を取り戻す時間だ。そしてその知覚が、AIに入力できないデータを収集し続ける。

AIをうまく使えるのは、AIを手放せる人間だ

逆説がある。

AIを最もうまく使えるのは、AIをいつでも手放せる人間だ。

依存している人間は、AIが出した答えを疑えない。手放せる人間は、「ちょっと待て」と言える。自分の身体が何かを感じているとき、それをAIの出力より優先できる。

人間の身体には、まだ活用されていないセンサーが無数にある。

それらを使い続けることで、AIが処理できないデータを収集し続けることができる。

使わなければ、そのセンサーは機能を失う。

あなたが最後に、本当に意識して何かの匂いを嗅いだのは、いつだったか。

この章のポイント

  • 知識労働は視覚と聴覚に偏り、触覚・嗅覚・味覚が休眠している
  • 使用依存的可塑性により、使わない感覚を司る脳領域は縮む
  • 医療では嗅覚や触覚が拾っていた情報が、診断の補助線になっていた
  • AIをうまく使える人間は、AIをいつでも手放せる人間だ