あるシェフの話をしたい。ミシュランの星を持つレストランで、このシェフはレシピ管理にAIを使っている。食材のコスト計算、栄養バランス、季節のトレンド分析。全部AIが出力する。でも毎朝、市場に足を運ぶ。魚を触る。野菜の重さを手のひらで感じる。匂いを嗅ぐ。「なぜAIで発注しないのか」と聞かれたとき、彼は答えた。「そうしたら、料理ができなくなります」。
AI要約と自分で読む論文の差
僕は連載の資料収集にAIを使っている。文献検索、要約、構成案の出力。ずいぶん楽になった。
でも、論文は自分で読む。
AIの要約を読んで「わかった」と思ったときの感覚と、自分でPDFを開いて図を眺め、方法論を確認し、著者の所属を確認したときの感覚は、まったく違う。
情報の量は同じかもしれない。でも何かが違う。
文脈は、要約では消える
その「何か」を、僕はこう考えている。
身体でやることは、情報だけでなく「判断の文脈」を作る。
文献を自分で読むと、その論文がどういう流れで書かれているかがわかる。著者が何に苦労したかが滲み出ている。どこに自信があって、どこに迷いがあるかが、行間から見えてくる。
AIの要約にはそれがない。エッセンスは残るが、文脈は消える。
文脈のない情報を積み重ねても、判断力は育たない。
親の足音をAIは聞けない
外来では、問診の前に親御さんの顔を見る。
子どもの顔より先に、親の顔を見る。これは意識的な習慣だ。親がどれくらい追い詰められているか、どれくらい不安なのか、それが診察の方針を変える。
この判断は、何千回も親御さんと向き合った身体の記憶から来ている。
AIが問診を補助するシステムが開発されている。質問の精度は高い。でもAIは、診察室に入ってくる瞬間の親の足音を聞けない。
効率を捨てた行為の中で、審美眼が育つ
効率を考えれば、AIに任せたほうがいい場面が増えている。
文章を書くなら、AIのほうが速い。調べ物をするなら、AIのほうが正確。スライドを作るなら、AIのほうが綺麗。
でも、速く正確に綺麗にやることだけが、仕事の意味ではない。
手で書くから気づくことがある。足で行くから見えるものがある。舌で確かめるから判断できることがある。
効率を捨てた行為の中で、審美眼が育つ。
「審美眼」とは判断能力のことだ
「審美眼」とは何か。
センスや趣味の話ではない。「これは本物か」「これは良いものか」を判断する能力のことだ。
その能力は、身体を通じた経験の蓄積から来る。AIの出力を大量に読んで育つものではない。
市場で魚を触り続けたシェフが「今日のこれは違う」と感じられるように。外来で何千人もの親と向き合い続けた医師が「この状況はただ事ではない」と感じられるように。
身体でやることは、非効率ではない。別の種類の能力への投資だ。
どちらかではなく、どちらをいつ選ぶか
これは「昔は手作業だったから良かった」という話ではない。
AIを使いながら、あえて身体でもやる。その二刀流の意味を、僕はまだ考えている。
手でやることで得られるものと、AIでやることで得られるものは、代替できない。
どちらかを選ぶ問題ではなく、どちらをいつ選ぶかという問題だ。
あなたは、効率を手放してでも身体でやることに、何か意味を見出しているか。
この章のポイント
- 身体でやることは情報だけでなく「判断の文脈」を作る。要約では文脈が消える
- AIの問診精度は高いが、診察室に入ってくる親の足音は聞けない
- 効率を捨てた行為の中で、本物を見分ける審美眼が育つ
- AIか身体かではなく、どちらをいつ選ぶかが問題