ある小学校で、AIリテラシーの授業が始まった。6年生の子どもたちがChatGPTの仕組みを学び、プロンプトの書き方を練習し、AIに質問して答えを得る。授業の最後に、一人の子どもがレポートに「人間の身体は非効率だと思います。脳だけをコンピュータにつなげたら、もっとうまくいくと思います」と書いた。先生はその文章に丸をつけた。論理的だったから。僕はこの話を聞いて、背筋が冷たくなった。
ある小学生のレポート
6年生の子どもたちがChatGPTの仕組みを学び、プロンプトの書き方を練習し、AIに質問して答えを得る。先生は「これからの時代に必要なスキルです」と言う。
授業の最後に、一人の子どもがレポートにこう書いた。
「人間の身体は非効率だと思います。疲れるし、忘れるし、間違えるし。脳だけをコンピュータにつなげたら、もっとうまくいくと思います。」
先生はその文章に丸をつけた。論理的だったから。
僕はこの話を聞いて、背筋が冷たくなった。
この連載は30回で終わる。今回は29回目だ。28回にわたって、同じことの変奏を書いてきた。有限であること。身体があること。失うものを持つこと。壊れるからこそ本気になれること。
今日は、その全部を一つの風景に重ねて書きたい。
朝5時半、ジムで「身体」になる
僕の1日を書く。
朝5時半に起きる。6時にクロスフィットのジムにいる。
今朝のメニューはスラスター、プルアップ、ローイング。スラスターとは、バーベルを担いでスクワットし、そのまま頭上に押し上げる動作だ。全身の連動が要る。腕だけでは上がらない。脚だけでも上がらない。身体全体が一つのシステムとして機能して、初めてバーベルが頭の上に届く。
3ラウンド目、腕が震え始める。呼吸が荒い。心拍数は175を超えている。ここで頭の中から、すべてが消える。論文の締め切りも、午後の外来も、昨夜書きかけのコードも。あるのは、バーベルの重さと、自分の身体だけだ。
最後の1レップを押し上げたとき、僕は何者でもない。医師でも、ライターでも、開発者でもない。重力に抗った、一つの身体だ。
8時、白衣を着て外来に立つ
8時、病院に着く。白衣を着る。外来が始まる。
最初の患者が入ってくる。運動後の外来は、感覚が鋭い。子どもの顔色の微妙な変化、母親の声のトーン、診察室に入ってくるときの足取り。ノイズが少ない状態で、それらが入ってくる。
午前中に30人ほど診る。
夜、Claude Codeで「人間を拡張する」
夜、子どもたちを寝かせた後、MacBookを開く。Claude Codeを立ち上げる。
今作っているのは、港区の子育て情報を集約したWebアプリだ。予防接種のスケジュール管理、近くの小児科検索、病児保育の空き状況。臨床で「こういうのがあれば」と思ったものを、自分で作っている。
コードを書く。正確に言えば、AIと一緒にコードを書く。僕がアーキテクチャを考え、要件を定義し、Claude Codeに実装を任せ、出力をレビューし、修正を指示する。
この作業をしているとき、僕の身体はほぼ動かない。指先がキーボードを叩くだけだ。朝のジムとは対極にある。
でも、両方やっている。両方やっていることに、意味がある。
代替可能なものが増えるほど、代替不可能なものの価値が上がる
なぜ両方やるのか。効率の話ではない。「運動すると頭がよくなるから」という話でもない。
この連載で書き続けてきたことに戻る。
人間は有限だ。壊れる。老いる。死ぬ。1日は24時間しかない。その中で何を選ぶかが、その人間を定義する。
僕はAIを使う。深く使う。毎日使う。AIの能力を知っているから、AIにできないことがわかる。AIにできないことがわかるから、自分がやるべきことがわかる。
そして「自分がやるべきこと」の中に、身体を使うことが含まれている。
バーベルを持ち上げること。患者の胸に聴診器を当てること。子どもの手を握ること。これらはAIには絶対にできない。代替しようがない。そして、代替しようがないものの価値は、代替可能なものが増えるほど、上がる。
AIを深く知った上で、AIに渡さないものを意志的に選ぶ。その「渡さないもの」の中心に、身体がある。
境界線を、毎日引き直す
一時期、論文をAIに要約させて済ませていた。効率的だった。でも半年後、論文を自分で読む速度と深度が落ちていた。筋肉と同じだ。使わなければ衰える。
AIに任せる仕事と、絶対に自分でやる仕事の境界線を、僕は毎日引き直している。
この境界線は、効率だけで引かない。「これを自分でやることで、何が育つか」を基準にする。効率を最大化するために身体的実践を手放し続けた先に残るのは、脳だけの存在だ。あの小学生が書いた「脳だけをコンピュータにつなげたら」という世界だ。
二つは矛盾しない。片方だけでは成立しない
傍から見れば、テクノロジーの最先端と、原始的な身体運動を、同じ24時間に詰め込んでいる変わった人間だ。
でも僕にとっては、これが一つのことだ。
AIに勝とうとしているのではない。AIと違う存在であり続けようとしている。有限な身体を持ち、壊れる可能性を引き受け、それでもこの身体で何かを選び続ける存在であろうとしている。
テクノロジーに詳しくなること。人間であることを手放さないこと。この二つは矛盾しない。むしろ、片方だけでは成立しない。
AIを知らなければ、何を手放してはいけないかがわからない。身体を手放せば、AIを使いこなす土台そのものが崩れる。
「何をしないか」を選ぶこと
29回分の問いを振り返って、僕が言えることは一つだ。
AIの時代に人間として生きるとは、「何をしないか」を選ぶことだ。できることが無限に増えていく中で、あえてしないことを決める。あえて自分の身体でやることを決める。あえて非効率を選ぶ。
それは怠惰ではない。有限な時間の中で、何に身体を使うかという、最も人間的な意思決定だ。
明日も朝5時半に起きる。ジムに行く。バーベルを握る。そのあと白衣を着て、子どもの胸に聴診器を当てる。夜はコードを書く。
この生活がいつまで続けられるかはわからない。身体は老いる。壊れる。いつか、バーベルを持ち上げられなくなる日が来る。
でも、今日はまだ持ち上げられる。
だから今日、持ち上げる。
この章のポイント
- 小学生の「脳だけをコンピュータにつなげたら」という一文に、AI時代に身体を手放すことの怖さが凝縮されている
- AIを深く知るからこそ、AIに渡さないものの中心に「身体」があるとわかる
- 代替可能なものが増えるほど、代替不可能なもの(バーベル・聴診器・子どもの手)の価値は上がる
- テクノロジーに詳しくなることと、人間であることを手放さないこと。この二つは矛盾せず、片方だけでは成立しない