病院、福祉施設、学校、NPO。どの組織も、名簿・記録・相談内容という形で機微な情報を抱えています。事務作業をAIに任せたいと思ったとき、最初につまずくのがこの機微な情報の扱いです。
前回、AIを使うかどうかは「使命を前進させるか」で判断すると扱いました。使命に合っていると判断できても、そこで渡すデータが機微な情報を含んでいれば、話はもう一段先に進みます。「この集計に本当に個人名が要るのか」「使っているAIはやり取りを学習に使うのか」「もし誤って入力してしまったらどう動けばいいのか」。この3つの問いに答えを持っているかどうかで、AIを任せてよい範囲が大きく変わります。
まず「入れない」
もっとも確実な対策は、そもそも機微な情報を入力しないことです。
注意
患者の情報は、いかなる場面でも入れない
医療機関でAIを使う場合、患者の氏名・生年月日・診療録番号・住所・特定できる所見は、要約や下書きの補助であっても一切入力しません。当直の引き継ぎメモを整えたいときは「小児科病棟」「◯歳代の患者」のように、個人を特定できない書き方に置き換えてから渡します。
これは病院に限った話ではありません。福祉施設の利用者記録、学校の生徒の成績、NPOの相談者の相談内容も同じ扱いです。まず削れる情報がないかを疑い、削ってもタスクが成立するなら削るのが最初の一手です。
削れないときは「伏せる」
集計や分析の目的によっては、個人を特定できる情報を完全には削れないこともあります。その場合は、識別性を下げる作業(データの下処理)をしてから渡します。
データを渡す前の下処理
名前を汎用の呼び方に置き換える
「田中さん」でなく「利用者A」「寄付者B」のように、連番や記号にする
場所を一般化する
「◯◯町3丁目」でなく「都内」「関東地方」のように、粒度を粗くする
連絡先を削除する
電話番号・メールアドレス・IDなど、単独で個人にたどり着ける情報を外す
金額や日付を範囲にする
「52,340円」でなく「5万円台」、「3月14日」でなく「3月中旬」のように幅を持たせる
たとえば、NPOが寄付者の継続率を分析したい場合、寄付者名・住所・電話番号は分析に不要なことがほとんどです。氏名を「寄付者001」に置き換え、金額を帯で示すだけで、傾向を見るという目的は十分に達成できます。学校で欠席理由の傾向を見たい場合も同じで、生徒名や学年を伏せて「小学校低学年」のようにまとめれば、個別の生徒を特定しないまま傾向は見えてきます。
大事なのは、下処理を「面倒な追加作業」でなく「渡す前の当たり前の一手間」として組み込むことです。毎回ゼロから考えるより、上の4段階を手順として決めておくほうが、担当者が変わっても同じ水準を保てます。
使う前に設定を確かめる
組織で使うAIには、個人向けの契約とは別の設定があることがあります。
やり取りしたデータをAIの学習に使うかどうかの設定。Anthropicの商用プラン(Claude Enterprise・Claude APIなど)は、既定ではユーザーが生成したデータをモデルの学習に使わないとAnthropicの公式サポートに明記されています(2026年9月時点)
入力したデータがどれくらいの期間保存されるか。組織向けプランには保持期間を短くする設定があることが多いので、管理者に確認します
米国のHIPAA・BAA(医療情報の取り扱いに関する契約)は、Anthropicの公式情報では上位のEnterpriseプランでのみ、組織の管理者が個別に有効化して初めて対象になります。有効化は取り消せない一方向の決定で、機能ごとに対象・対象外が分かれます(2026年9月時点、Coworkはまだ対象外)
“Avoid granting access to local files with sensitive information, like financial documents.”
筆者訳財務書類のような、機微な情報を含むローカルファイルへのアクセスは許可しないでください。
日本の個人情報保護法についての詳しい要件(安全管理措置や第三者提供の扱いなど)は、既存コースの個人情報保護法の詳細にまとめてあります。法令の解釈が絡む判断は、このコースでは扱わず、そちらと自組織の規程・専門家への確認に委ねます。
誤って入力・共有してしまったとき
どれだけ気をつけても、入力を間違えることはあります。大事なのは、事故の後にどう動くかを先に決めておくことです。
その場でやり取りを止める
会話や共有をそれ以上続けず、削除できる範囲は削除する
提供元に削除を依頼する
使っているAIサービスのサポート窓口に、データの削除を依頼する
組織の手順に従う
個人情報の漏洩・誤送信に関する自組織の報告手順に沿って報告する
これはメールの誤送信に気づいたときと同じ動き方です。特別な操作ではなく、普段の情報管理の延長として身構えておけば十分です。
やってみよう
演習1:架空の会議メモで下処理を練習する
「利用者からの相談内容をまとめた会議メモ」を架空でよいので思い浮かべ、上の4段階(名前・場所・連絡先・金額や日付)に沿って、どこをどう置き換えるかを書き出してみましょう。そのうえで次の4つを自分の言葉で答えてください。
- 委任力:この要約作業は、そもそもAIに任せるべきか
- 記述力:下処理をしたうえで、どんな指示を出せば十分な要約になるか
- 評価力:出来上がった要約に、個人を特定できる情報が残っていないかをどう確認するか
- 倫理的責任:この要約がAIの手を借りて作られたことを、誰にどう伝える必要があるか
演習2:自組織のツール設定を確認する
今使っている(または導入を検討している)AIツールについて、上のToolTableの3項目(学習に使うか・保持期間・BAAの対象範囲)を、実際の設定画面や契約書で確認できるか試してみましょう。確認できなかった項目は、次に誰に聞けばよいかまで書き出してください。
今日のまとめ
3行で振り返ります。
- 機微な情報は、まず入れない。削れないときは名前・場所・連絡先・金額や日付を伏せる
- 学習に使うかどうか・保持期間・BAAの対象範囲は、組織向けプランでも個別に確認する
- 誤入力・誤共有に気づいたら、止める→削除を依頼する→組織の手順に従う、の順で動く
次のレッスンでは、機微な情報を整えたうえで、分析そのものをどこまで信頼してよいかを確かめる手順を見ていきます。
セルフチェック
1. 医療機関でAIを使うとき、本文が明記している原則はどれですか。
2. データを渡す前の下処理として、本文が挙げていないものはどれですか。
3. Anthropicの公式サポート情報にもとづく説明として正しいものはどれですか。