ある病院で、AIによる問診システムが導入された。患者は診察前にタブレットで症状を入力する。AIが整理して、医師に渡す。診察時間が30%短縮された。満足度調査のスコアも上がった。半年後、看護師たちが気づいた。「患者さんが、診察室に入る前に泣いているケースが増えた気がする」
雑談が、情報の扉を開けていた
外来の廊下で、保護者と少し雑談する。天気の話、保育園の話、上の子の話。どうということのない話。
その3分間で、何かが変わる。
「実は、もう一つ相談があって」という言葉が、診察室の中で出てくる。問診票には書いていなかった内容が、出てくる。
雑談が、情報の扉を開けていた。
効率化の文脈で、雑談は最初に削られる
効率化の文脈で、雑談は最初に削られる。
「それ、必要ですか」という問いに、雑談は弱い。目的がないから。成果物がないから。KPIに入らないから。
医療の現場でも同じだ。診察時間は短縮され、問診は構造化され、会話はプロトコル化される。
AIはそのプロセスをさらに加速する。非構造化された情報より、構造化された情報の方が処理しやすいから。
心理的安全性の発生源は雑談
でも、雑談の中に何があったのかを、今になって思う。
心理的安全性、という言葉がある。組織論の文脈で使われることが多い概念だが、その発生源は、結局のところ「どうでもいい話ができる関係性」だ。
煙草部屋の話がよく出る。昔の会社では、煙草部屋で交わされる雑談が、部門を超えた情報共有の場だったという話。禁煙化が進んで煙草部屋が消えたら、部門間の横断的なコミュニケーションも減った、という。
煙草ではなく、雑談が必要だった。
AIは目的なく喋れない
Slackでもチャットでも、雑談チャンネルを作ることはできる。
でも、作ることと、雑談が生まれることは、別の話だ。「雑談してください」と言われると、雑談できなくなる。雑談は、目的がないことに意味がある。
AIは目的なく喋れない。全ての発話に、何らかの目的関数がある。
だから、雑談ができない。
問題は、人間も雑談をしなくなりつつあること
問題は、AIができないことではない。
問題は、人間も雑談をしなくなりつつある、ということだ。
会議は全てアジェンダ付き。メッセージは要点だけ。移動中はポッドキャスト。空き時間にスマートフォン。
「何もしない」「どうでもいい話をする」という時間が、どんどん圧縮されている。
廊下の5分から生まれる視点
病院の廊下で同僚の医師と5分ほど話した。患者の話でも、業務の話でもなく、本当にどうでもいい話。お互いの子どもの話。最近食べたもの。
その会話の中で、ふと「あの患者さんのこと、どう思う?」という話になった。
僕が一人では気づかなかった視点が、出てきた。
論文を読んでも、AIに聞いても、出てこない視点だった。
説明できない有用性は、消えていく
雑談の中でしか生まれないものがある。
それが何かを正確に説明できないのが、また厄介なところだ。
「雑談の効果を研究してください」とAIに言えば、関連論文を集めて、エビデンスをまとめてくれる。でも、その研究は雑談から生まれたアイデアを研究しているのであって、雑談そのものではない。
「非効率」と呼ばれるものを削り続けた先に、何が残るのか。
答えは出ない。でも、病院の廊下で保護者と天気の話をしながら、毎回少しだけ考える。
この章のポイント
- 雑談は情報の扉を開ける。問診票に書かれない訴えが診察室で出てくる
- 心理的安全性の発生源は「どうでもいい話ができる関係性」。煙草部屋が運んでいたのは煙草ではなく雑談
- AIはすべての発話に目的関数を持つ。だから雑談はできない
- 問題はAIではなく、人間からも雑談が消えつつあること。非効率を削った先に何が残るか