ある朝、世界はひっくり返る
2016年3月のある朝、僕はニュースを見て言葉を失った。
囲碁の世界トップ棋士、李世乭(イ・セドル)九段が、Googleの作ったAI「AlphaGo」に負けた。1勝もできずに連敗するんじゃないか、と言われていた中での、5戦4敗。第2局の第37手は、後から振り返って「神の一手」と語られることになる。「人間ならまず打たない手だ」と中継解説の棋士たちが声を震わせていた。
そのニュースを読みながら、ふと気づいた。
「あ、これ、もう戻れないやつだ」
機械が人間を超えた、というのとは少し違う。人間が長い時間かけて積み上げてきた直観の世界に、機械が独自の道筋で入ってきて、しかも人間が思いつかなかった手を指した。これはターミネーターでもAKIRAでもなく、ただの月曜日の朝に起きた。
僕らの世代は、こういう「世界がひっくり返る朝」に、過去20年で3回立ち会ってきた。
1. 2007年1月、画面からボタンが消えた
最初の朝は、2007年1月のMacworldだった。
スティーブ・ジョブズが黒いタートルネックでステージに立ち、「今日、3つの新製品を発表する」と言った。ワイドスクリーンのiPod、革命的な携帯電話、画期的なネット通信デバイス。3つだ、と繰り返してから、笑って言った。
これらは、3つの製品ではなく、1つです。
それがiPhoneだった。
当時の僕らはガラケーを使っていた。十字キーと番号ボタンで一文字ずつ入力していた。絵文字が打てる、メールが送れる、それで十分便利だと思っていた。
ジョブズが画面に指を滑らせて写真をスクロールさせ、ピンチで拡大した瞬間、あ、と声が出た。
ボタンがない。指で触れる。これでいいんだ。
このとき、攻殻機動隊(1995)の描いた電脳ネットワーク世界が、ちょっとだけ現実に近づいた。素子が首の後ろのソケットからネットに直接アクセスする世界はまだ来ていなかったが、画面に直接触れて情報を操作する世界は、もう手の中にあった。
iPhoneが出る前の世界と後の世界は、もう同じ世界ではない。
地図を見るために紙を広げる必要がなくなった。タクシーを呼ぶために電話する必要もなくなった。レストランを探すのに本屋に行く必要もなくなった。
10年経って気づくと、ガラケーは博物館の中にあった。
2. 2016年3月、AlphaGoの第37手
二度目の朝は、2016年だった。
囲碁は、長い間、AIには無理だと言われていたゲームだ。チェスは1997年にIBMのDeep Blueが世界王者カスパロフを破った。だが囲碁は、一手ごとに考えられる手の数がチェスの比じゃない。宇宙の原子の数より多い、という比喩がよく使われた。
『ヒカルの碁』を読んだ世代にとって、囲碁は神様と話すための盤上だった。藤原佐為は平安から千年経っても誰にも勝てない天才だった。それくらい、囲碁は人間の精神性と結びついた何かだった。
そこに、AlphaGoが来た。
開発したのはGoogle DeepMind(Silver et al., Nature, 2016, DOI: 10.1038/nature16961)。深層学習と探索木を組み合わせた、当時としては最新のAIだ。
2016年3月、ソウル。世界タイトル18回の李世乭九段との5番勝負。
第2局の第37手で、AlphaGoは人類が3000年積み上げてきた囲碁の常識から外れた一手を指した。中継していたプロ棋士たちは「ミスだ」と言った。「これは弱い手だ」と。
でも数十手進んだとき、その手が局面全体を決定づけていたことが分かった。
人間が見ていなかった筋が、そこにあった。
AlphaGoは5戦4勝で李世乭を破った。世界が「いやマジか」となった日だった。
その瞬間に、AIに対する見方が一段階ずれた。「いつか機械が人間を超える」が、「もう超えた領域がある」になった。
3. 2022年11月、言葉が降りてきた
三度目の朝が、ChatGPTだった。
L01でも書いたが、最初は静かなニュースだった。「対話できるAIが出た」程度の話で、過去にも似たようなチャットボットは何度もあった。
でも、触ってみたら違った。
「江戸時代の医師の日記風に、令和の研修医の日常を書いて」と頼むと、本当に書いてくれた。「この症状で考えられる鑑別を10個」と頼むと、ちゃんと10個出してきた。間違うこともあったが、ちゃんと言葉として返ってきた。
これ、her(2013)で予言されていた世界だ、と思った。
スパイク・ジョーンズの『her』で、主人公が「サマンサ」というAIに恋をする。観たときは、いやそんな未来こないでしょ、と思った。声で愛を語る機械なんて、ロマンスの寓話としては美しいけど、現実的じゃない。
そう思っていた。
でも今、ChatGPTもClaudeも、僕の質問に対して、人格を持っているかのように答えを返してくる。声でも応答する。冗談を言うと冗談で返してくる。怒ったふりをすると、ちょっと困った感じで返してくる。
サマンサはもう、僕のスマホの中にいる。
ChatGPTは公開後5日で100万人、2ヶ月で1億人に達した。インターネット史上、もっとも速く広まったプロダクトだ(Reuters、2023年2月)。
3度目の朝が来た。
4. ひっくり返る朝に共通する3つのこと
3つの朝を並べて気づくのは、共通するパターンだ。
第一に、その朝より前から、すでに兆しはあった。
iPhone前夜、Palm Pilotがあった。AlphaGo前夜、IBM Watsonがクイズ番組で人間に勝っていた。ChatGPT前夜、GPT-3はすでに2020年に出ていた。完全な無からの出現じゃない。階段が積み上がっていて、ある段でぐっと景色が変わる。
第二に、その朝の直前まで、専門家ですら来ないと思っていた。
スマホを否定したのはMicrosoftのバルマーだ。囲碁AIが10年は無理だと言ったのは多くの研究者だ。GPT-3を見たときに「次は何ができても驚かない」と言っていた研究者ですら、ChatGPTの大衆普及には驚いていた。
第三に、その朝が過ぎると、もう前の世界には戻れない。
iPhone前のガラケーには戻れない。AlphaGo前の「囲碁は人間の聖域」には戻れない。ChatGPT前の「AIは検索の延長」には戻れない。一度開いた扉は閉じない。
5. 次の朝はどこにある
これからの5年で、おそらくあと2〜3回、同じような朝が来る。
候補は3つあると思っている。
次の『朝』が来そうな3つの場所
ロボットの具現化
AIが頭脳から、手と足を持つ存在になる
エージェント化
AIが「答える存在」から「動く存在」になる
生命科学の特異点
新薬・治療が、個人ゲノムから設計される
これらの朝が、いつ来るかは分からない。
ただ、来た瞬間に「あ、来た」と気づける目を持っているかどうかは、自分で決められる。
6. あなたは何回、その朝に立ち会えるか
過去3回の朝のうち、あなたが立ち会ったのは何回だろうか。
iPhoneの朝に「これは凄いことになる」と思って買ったか、「電池すぐ切れるしダメだろ」と笑っていたか。
AlphaGoの朝に「囲碁の歴史が変わった」と思ったか、「ふーん、機械強いね」で終わったか。
ChatGPTの朝に、自分の仕事を渡してみたか、「Siriみたいなやつでしょ」と片付けたか。
立ち会えなかった朝は、後から取り戻せない。10年経つと、立ち会った人と、寝過ごした人の間に、別の景色が広がっている。
研修医のあなたが、これから2〜3回の朝に立ち会えるかどうかは、たぶん「ニュースを見たら触ってみる」という小さい動作の有無で決まる。
僕がL01で「今夜、ChatGPTに何か投げてみてほしい」と書いたのは、これだ。
立ち会う体勢を作っておくことが、見取り図を持つということだ。
7. 次のレッスンへ
次は、海の向こうの話をする。
アメリカの研修医は、もうAIと働いている。
GlassHealthという鑑別診断AIを開いて、Abridgeで音声記録を取り、Open Evidenceで論文を一発検索する。それが日常になっている病院がある。
何が違うのか。何が真似できて、何が真似できないのか。
世界の現在地を見に行こう。
Sources & Further Reading
AlphaGoの原論文。深層学習と探索木の組合せで世界の頂点を超えた研究
UBSアナリストによる『5日で100万人、2ヶ月で1億人』の出典
Glass Health、Abridge、OpenEvidence、Hippocratic AI。海の向こうの研修医が今日触っている4つの道具を、規模付きで見にいく
GlassHealthという鑑別診断AIを開いて、Abridgeで音声記録を取り、Open Evidenceで論文を一発検索する。それが日常になっている病院がある。
何が違うのか。何が真似できて、何が真似できないのか。
世界の現在地を見に行こう。