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第58回:静止画が動き出す?—オプ・アートと脳が作る「ありえない動き」

知覚の錯覚そのものを目的とした芸術、「オプ・アート(Op Art)」の世界に足を踏み入れる。

オプ・アートは、幾何学的な形や色彩のパターンを緻密に計算して配置することで、静止しているはずの画面に動き、点滅、振動、歪みといった、物理的には「ありえない動き」を知覚させる芸術だ。ブリジット・ライリーの作品の前に立つと、白と黒の波線が目の前でうねり出し、眩暈を覚える。なぜ僕たちの脳は、こうもたやすく騙されるのか。オプ・アートは、網膜から大脳皮質に至る視覚情報処理システムの「バグ」や「ショートカット」を巧みに利用し、知覚がいかに不安定な脳の「構築物」であるかを暴き出す。

脳の「ショートカット」をハックする

オプ・アートが引き起こす錯視の多くは、視覚システムの初期段階、特に網膜や第一次視覚野における神経細胞の働きに起因する。僕たちの視覚システムは、効率よく情報を処理するために、いくつかの「ショートカット」を進化させてきた。エッジ(輪郭)や動きを検出することに特化した神経細胞群が存在する。

オプ・アートの作家たちは、このシステムを「ハック」する。高コントラストの白黒パターンを特定の周期で繰り返すと、エッジを検出する神経細胞が過剰に興奮し、その興奮が隣接する細胞に影響を与えることで、存在しないはずの動きや揺らぎの感覚が生み出される。「周縁ドリフト錯視」と呼ばれる現象と関連がある。また、特定の色の組み合わせ(補色など)を隣接させると、網膜の色受容体が疲労し、実際にはない色が残像として見えたり、色が滲んで見えたりする。脳は、これらの予期せぬ信号を何とか解釈しようと試み、結果として「ありえない動き」を知覚してしまう。

知覚は「構築物」である

オプ・アートの体験は、僕たちに重要な事実を突きつける。僕たちが「見ている」世界は、網膜に映った光景をそのままコピーしたものではなく、脳が過去の経験や予測に基づいて積極的に「構築」したものだ。

脳は、曖昧で不完全な視覚情報を受け取ると、それを最も「ありえそうな」パターンに当てはめて解釈しようとする。オプ・アートは、この脳の「お節介」な解釈システムがうまく機能しないように特別にデザインされたパターンだ。脳は、静止画であるという「正解」を知っているにもかかわらず、神経細胞の自動的な反応によって生じる「動き」の信号を無視できない。この「知っていること」と「見えていること」の分裂は、僕たちの知覚がいかに自動的で、意識的なコントロールの及ばない領域で動いているかを痛感させる。

飛躍(洞察):めまい診療と「感覚の不一致」

視覚情報と他の感覚情報との間に生じる「不一致(ミスマッチ)」の体験は、臨床における「めまい(dizziness)」の病態と驚くほどよく似ている。

めまいの多くは、僕たちの平衡感覚を司る三つのシステム。①視覚、②内耳(三半規管・耳石器)、③深部感覚(足の裏などからの位置情報)。の間で情報の不一致が生じることによって引き起こされる。

  • 良性発作性頭位めまい症(BPPV):内耳の耳石が剥がれて三半規管に入り込むことで、頭を動かしていないのに「動いている」という誤った信号が脳に送られる。視覚は「静止している」と報告しているのに、内耳は「回転している」と報告する。この内耳と視覚のミスマッチが、グルグル回る回転性めまいを引き起こす。
  • 乗り物酔い:車や船に乗っているとき、視覚(車内の景色)は「静止している」と報告するが、内耳は揺れや加速を「動き」として感知する。この視覚と内耳のミスマッチが吐き気などの症状を引き起こす。

オプ・アートを見ているときの感覚は、このめまいの状態に非常に近い。脳は「この絵は静止しているはずだ」と知っている(=深部感覚や常識からの情報)のに、視覚システムは「動いている」という強力な信号を送り続けてくる。

この認知と知覚のミスマッチが、鑑賞者に不安定で不快な感覚、すなわち一種の「視覚的なめまい」を引き起こす。

めまいの患者を診察することは、まさにこの感覚の不一致の原因を探り、脳内で起きている混乱を解き明かすプロセスに他ならない。

まとめ

オプ・アートは、僕たちの知覚の確かさを根底から揺さぶる、スリリングな知覚訓練だ。

この章のポイント

  • オプ・アートは視覚システムの神経細胞の「バグ」をハックして、ありえない動きを生む
  • 知覚は網膜のコピーではなく、脳が経験と予測で積極的に作り出す「構築物」
  • めまいは視覚・内耳・深部感覚のミスマッチで起きる「感覚の不一致」
  • オプ・アート体験は、めまい診療と同型の認知と知覚の分裂を可視化する