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涙を流せることの意味

2024年、AIが音楽を聴いて「感動した」と述べた。Googleのgeminiに「この曲を聴いてどう感じましたか?」と聞くと、「深い郷愁を感じます。胸が締め付けられるような感覚があります」と答えた。だが、AIは涙を流さない。流せない。 その違いに、どれほどの意味があるのか。あるいは、どれほどの意味がないのか。

医師が泣いてはいけないのか

僕はこの問いから逃げられなくなっている。

泣いた経験がある。

新生児集中治療室で担当していた子どもが亡くなったとき。救急外来で一晩戦ったのに回復しなかったとき。親御さんが「先生、ありがとうございました」と言いながら涙を流すのを見たとき、僕も泣いた。

医師が泣くべきではないという考え方がある。感情的になることはプロフェッショナリズムに欠けると言う人もいる。

僕は、あのとき泣いて良かったと思っている。

なぜなら、涙は「この出来事が僕にとって意味を持った」という証拠だからだ。無感覚にやり過ごすことができなかった。その子どもの死が、僕の中に入り込んだ。それが涙になった。

効率の観点では、感情は邪魔だ

効率の観点から見ると、感情は邪魔だ。

判断を歪める。時間を奪う。エネルギーを消耗する。仕事のパフォーマンスを下げる。感情的になった外科医は手術の精度が落ちる、という研究もある。

AIが感情を持たないことは、ある意味で強みだ。疲れない。傷つかない。動揺しない。バーンアウトしない。24時間、均一のパフォーマンスを維持する。

だとすれば、感情のない意思決定者の方が優れているのか。感情のないリーダーの方が良い組織を作るのか。感情のない医師の方が良い医療を提供するのか。

直感的に「違う」と感じる。だが、なぜ違うのかを言語化することは難しい。

涙は身体の修復装置だ

涙には、感情以上のものが含まれている。

生化学者ウィリアム・フレイ(William Frey)は1985年の研究で、感情的な涙と反射的な涙(玉ねぎを切ったときの涙)の成分を比較した。結果、感情的な涙にはストレス関連ホルモンであるACTH(副腎皮質刺激ホルモン)やプロラクチンが多く含まれていた。

つまり、泣くという行為は、身体がストレス物質を物理的に排出するプロセスでもある。

泣いた後に「すっきりした」と感じるのは、気のせいではない。身体が化学的にリセットされている。涙腺は、感情の排水口のような役割を果たしている。

AIには涙腺がない。ストレスホルモンもない。だから「泣いてすっきりする」という回路を持たない。

涙を流せるということは、身体が自分自身を修復する力を持っているということだ。

深く泣くことが構造的に困難な時代

AIが「感動した」と言える時代に、本当に感動して泣く人間は希少になる。

感動は生産性と結びついていないから、現代社会では「感動する余裕がない」人が増えている。スマートフォンは常に何かの刺激を提供し、感情が深くなる前に別の刺激が来る。深く感動するには、集中と時間が必要だ。

TikTokの時代に、深く泣くことは構造的に困難だ。

そして、AI生成コンテンツが増えれば増えるほど、「これは本物の感情から生まれたのか」という問いが意味を持つようになる。

アーティストが「この曲を作ったとき、泣きながら書いた」と言う。それはAIとの明確な差異だ。AIには、泣きながら書く経験がない。泣く理由がない。泣く身体がない。

感動から生まれた作品と、感動を模倣して生まれた作品は、本当に同じなのか。

感情は、論理が拾えない情報を拾う

診察室で子どもを見て泣きそうになることがある。それは非効率だ。でも、その「泣きそう」という感覚が、「この子に何かある」という直感の源泉になることがある。

数値はまだ正常範囲内だ。でも、何かがおかしい。その「何か」を感じるのは、感情を使っているからだ。感情は、論理が処理しきれない情報を拾い上げる。

AIはすべてをパターンマッチングで処理する。数値が正常ならば正常と判断する。

人間は数値が正常でも「気になる」と感じることがある。

その「気になる」が、後で意味を持つことがある。

体重が出生時に戻った日

先週、外来で生後1ヶ月の赤ちゃんを抱いた。体重がようやく出生時に戻ったところだった。母親が「やっと増えました」と笑った。

僕の目が少し潤んだ。たったそれだけのことで。

AIは「体重が出生時に回復した」と記録する。正確だ。だが、そこに含まれていた安堵と、僕の目が潤んだことの意味は、どこにも残らない。

涙を流せることは、非効率な欠陥か。言語化できない何かを感知するセンサーか。

どちらなのかは、まだわからない。

この章のポイント

  • 涙は「この出来事が自分にとって意味を持った」という証拠
  • 感情的な涙にはストレスホルモンが含まれ、身体を化学的に修復する装置でもある
  • TikTok時代には深く泣くことが構造的に困難になっている
  • 感情は、論理が処理しきれない情報を拾うセンサーかもしれない