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テクノロジーに詳しくなること。人間であることを手放さないこと

ある小学校で、AIリテラシーの授業が始まった。6年生の子どもたちがChatGPTの仕組みを学び、プロンプトの書き方を練習する。授業の最後に、一人の子どもがレポートにこう書いた。「人間の身体は非効率だと思います。疲れるし、忘れるし、間違えるし。脳だけをコンピュータにつなげたら、もっとうまくいくと思います。」先生はその文章に丸をつけた。論理的だったから。僕はこの話を聞いて、背筋が冷たくなった。

28回の変奏を、一つの風景に重ねる

本書で、同じことの変奏を書き続けてきた。有限であること。身体があること。失うものを持つこと。壊れるからこそ本気になれること。

ここでは、その全部を一つの風景に重ねて書く。

朝5時半。重力に抗った、一つの身体

僕の1日を書く。

朝5時半に起きる。6時にクロスフィットのジムにいる。

今朝のメニューはスラスター、プルアップ、ローイング。スラスターとは、バーベルを担いでスクワットし、そのまま頭上に押し上げる動作だ。全身の連動が要る。腕だけでは上がらない。脚だけでも上がらない。身体全体が一つのシステムとして機能して、初めてバーベルが頭の上に届く。

3ラウンド目、腕が震え始める。呼吸が荒い。心拍数は175を超えている。ここで頭の中から、すべてが消える。論文の締め切りも、午後の外来も、昨夜書きかけのコードも。あるのは、バーベルの重さと、自分の身体だけだ。

最後の1レップを押し上げたとき、僕は何者でもない。医師でも、ライターでも、開発者でもない。重力に抗った、一つの身体だ。

8時。運動後の外来は、感覚が鋭い

8時、病院に着く。白衣を着る。外来が始まる。

最初の患者が入ってくる。運動後の外来は、感覚が鋭い。子どもの顔色の微妙な変化、母親の声のトーン、診察室に入ってくるときの足取り。ノイズが少ない状態で、それらが入ってくる。

午前中に30人ほど診る。

夜。AIと一緒にコードを書く

夜、子どもたちを寝かせた後、MacBookを開く。Claude Codeを立ち上げる。

今作っているのは、港区の子育て情報を集約したWebアプリだ。予防接種のスケジュール管理、近くの小児科検索、病児保育の空き状況。臨床で「こういうのがあれば」と思ったものを、自分で作っている。

コードを書く。正確に言えば、AIと一緒にコードを書く。僕がアーキテクチャを考え、要件を定義し、Claude Codeに実装を任せ、出力をレビューし、修正を指示する。

この作業をしているとき、僕の身体はほぼ動かない。指先がキーボードを叩くだけだ。朝のジムとは対極にある。

でも、両方やっている。両方やっていることに、意味がある。

なぜ両方やるのか

効率の話ではない。「運動すると頭がよくなるから」という話でもない。

本書で書き続けてきたことに戻る。

人間は有限だ。壊れる。老いる。死ぬ。1日は24時間しかない。その中で何を選ぶかが、その人間を定義する。

僕はAIを使う。深く使う。毎日使う。AIの能力を知っているから、AIにできないことがわかる。AIにできないことがわかるから、自分がやるべきことがわかる。

そして「自分がやるべきこと」の中に、身体を使うことが含まれている。

バーベルを持ち上げること。患者の胸に聴診器を当てること。子どもの手を握ること。これらはAIには絶対にできない。代替しようがない。そして、代替しようがないものの価値は、代替可能なものが増えるほど、上がる。

AIを深く知った上で、AIに渡さないものを意志的に選ぶ。その「渡さないもの」の中心に、身体がある。

毎日引き直す境界線

一時期、論文をAIに要約させて済ませていた。効率的だった。でも半年後、論文を自分で読む速度と深度が落ちていた。筋肉と同じだ。使わなければ衰える。

AIに任せる仕事と、絶対に自分でやる仕事の境界線を、僕は毎日引き直している。

内容
AIに任せる情報収集、初稿作成、反復的な処理、データ整理
自分でやる判断、患者との会話、文章の最終仕上げ、論文の精読、身体診察、バーベルを握ること

この境界線は、効率だけで引かない。「これを自分でやることで、何が育つか」を基準にする。効率を最大化するために身体的実践を手放し続けた先に残るのは、脳だけの存在だ。あの小学生が書いた「脳だけをコンピュータにつなげたら」という世界だ。

24時間に詰め込まれた一つのこと

朝5時半に起きてジムに行き、日中は外来で患者を診て、夜はClaude Codeでアプリを作る。

傍から見れば、テクノロジーの最先端と、原始的な身体運動を、同じ24時間に詰め込んでいる変わった人間だろう。

でも僕にとっては、これが一つのことだ。

AIに勝とうとしているのではない。AIと違う存在であり続けようとしている。有限な身体を持ち、壊れる可能性を引き受け、それでもこの身体で何かを選び続ける存在であろうとしている。

テクノロジーに詳しくなること。人間であることを手放さないこと。この二つは矛盾しない。むしろ、片方だけでは成立しない。

AIを知らなければ、何を手放してはいけないかがわからない。身体を手放せば、AIを使いこなす土台そのものが崩れる。

「何をしないか」を選ぶ

ここまで書いてきた問いを振り返って、僕が言えることは一つだ。

AIの時代に人間として生きるとは、「何をしないか」を選ぶことだ。できることが無限に増えていく中で、あえてしないことを決める。あえて自分の身体でやることを決める。あえて非効率を選ぶ。

それは怠惰ではない。有限な時間の中で、何に身体を使うかという、最も人間的な意思決定だ。

明日も朝5時半に起きる。ジムに行く。バーベルを握る。そのあと白衣を着て、子どもの胸に聴診器を当てる。夜はコードを書く。

この生活がいつまで続けられるかはわからない。身体は老いる。壊れる。いつか、バーベルを持ち上げられなくなる日が来る。

でも、今日はまだ持ち上げられる。

だから今日、持ち上げる。

この章のポイント

  • 代替不可能なものの価値は、代替可能なものが増えるほど上がる。バーベル・聴診器・子どもの手はAIに渡せない
  • AIに任せる仕事と自分でやる仕事の境界線を毎日引き直す。基準は効率ではなく「これを自分でやることで何が育つか」
  • テクノロジーに詳しくなることと、人間であることを手放さないこと。この二つは片方だけでは成立しない
  • AI時代に人間として生きるとは、「何をしないか」を選ぶこと。最も人間的な意思決定