この本を書き始めたとき、一つだけ確かめたいことがあった。AIが限りなく賢くなっていく世界で、「人間として生きることの意味」は何か。その問いを、正直に考えたかった。30回、考え続けた。答えは、まだ出ていない。出ないまま書き終えた。それでも、何かが変わった。書いている僕自身が、変わった。
問いの周りをぐるぐる回った
「AIがどれだけ賢くなっても、人間にしかできないことがある」と言いたいのではない。そんな話をしたかったわけではない。
もっと手前の、もっと不安定な場所にあった。
振り返ると、この本は一つの問いの周りをぐるぐると回り続けた。身体を持つことの意味。失敗する意味。退屈する意味。「違う」と言える感覚の正体。手で触り、足で歩き、舌で確かめることの意味。
AIはこれらを持たない。
だから人間がAIより優れている、という話ではない。包丁は刀より料理に優れているが、それは優劣ではなく用途の話だ。
「あ、今日は違う」。身体の記憶が検知していた
ある日、外来に一人の子が来た。
4歳の女の子。何度も来ている子だった。お母さんが毎回、スマホにメモした症状を見せてくれる。熱の推移、食事の量、機嫌の変化。几帳面な記録だった。
その日、その子の顔を見た瞬間に「あ、今日は違う」と思った。
データは前回と大きく変わらなかった。熱も下がりかけていた。ただ、目の奥の光が少しだけ弱かった。笑い方がいつもよりワンテンポ遅かった。
検査を追加した。結果が出て、早めの対応ができた。
あとで振り返って考えた。あの判断の根拠は何だったのか。
数値ではなかった。アルゴリズムでもなかった。何十回とあの子の顔を見てきた身体の記憶が、「いつもと違う」を検知していた。
AIは画像認識でこれをやれるようになるかもしれない。いつかは。だがあの瞬間の判断は、あの子との「歴史」を身体に蓄積していた僕にしかできなかった。
手が震えるお父さんの前で
別の夜、当直で生後2ヶ月の赤ちゃんが運ばれてきた。
呼吸が速い。お父さんが抱いていて、手が震えていた。
診察しながら、僕はお父さんの目を見て話した。「大丈夫です。今から対応します」。声のトーンを意識的に落とした。自分の呼吸を整えた。
医療における「安心の提供」は、情報の正確さだけでは成立しない。目の前の人間が自分の身体を使って「大丈夫だ」と示すことで初めて伝わるものがある。
お父さんの手の震えが少しずつ止まっていくのを、僕は見ていた。
構えが溶けていった
この本を書いている間に、僕自身も変わった。
正直に言う。書き始めた頃、僕はAIに対してどこか身構えていた。「AIにはできないこと」を探すことで、自分の存在意義を確認しようとしていたところがある。
書き続けるうちに、その構えが少しずつ溶けていった。
AIは僕の仕事を奪う存在ではなかった。むしろ、毎晩一緒にコードを書いてくれるパートナーだった。論文を読む速度を上げてくれる道具だった。一人ではたどり着けなかったアイデアを引き出してくれる触媒だった。
変わったのは、AIとの距離感だ。
敵でも味方でもない。道具であり、同時に、自分の人間性を映す鏡でもある。AIと一緒に仕事をすればするほど、「これは自分にしかできない」と思える瞬間が研ぎ澄まされていく。
変わらなかったものもある。
外来で子どもの顔を見たときの集中力。聴診器を当てたときの緊張感。お母さんの言葉の奥にある不安を拾おうとする意識。
これらは、AIをどれだけ使っても薄まらなかった。むしろ、AIに任せられる雑務が減ったぶん、目の前の患者に割ける注意力は増えた。
「失う」という、ただ一つの非対称性
ただ一つだけ、AIと人間の非対称性は残る。
「失う」という体験だ。
AIは失わない。データは蓄積される。モデルは更新される。古いバージョンは廃棄されるが、AIはそれを「失った」とは感じない。
人間は失う。時間を失う。健康を失う。大切な人を失う。若さを失う。チャンスを失う。
その「失う」という体験が、人間を本気にさせる。
小児科医として、生死の現場を見てきた。亡くなった子どもがいる。助けられなかった命がある。
その経験は僕を変えた。医師としての判断を変えた。研究への動機を変えた。AIをどう使うかの価値基準を変えた。
「失う」ことへの恐れがあるから、本気になれる。有限の時間があるから、今日何をするかが問題になる。命に限りがあるから、この目の前の子どもが大切になる。
タイトルの意味が、書き終えた今、変わっている
「失うものがあるから、本気になれる」というタイトルの意味が、30回を書き終えた今、僕の中で変わっている。
最初は「人間はAIと違って失うものがある」という話だと思っていた。
今は違う。もっと個人的な話だ。
コラムで書いた、姉のこと、母のこと。あの夜の無力感が、僕を医師にした。
そしてこの本を書きながら、外来に立つ感覚が変わった。
以前は「正しい判断を下すこと」に集中していた。今は、目の前の子どもと過ごせる時間が有限であることを、前より強く意識している。この子の成長を診られるのは、あと何回だろう。このお母さんの不安に寄り添えるのは、今この瞬間しかないかもしれない。
有限性を意識すると、外来の1コマ1コマが重くなる。重くなることは、つらいことではなかった。むしろ、集中力が増した。
みなとんを作っている理由も、コラムに書いた通りだ。一人で背負わせない仕組みを作ること。それは今も変わらない。
あの無力感が、僕を医師にした。あの無力感が、みなとんを作らせている。あの無力感が、30回書かせた。
重荷として受け取るのか、エンジンとして受け取るのか
失うものがあることを、どう受け取るか。
重荷として受け取るのか、エンジンとして受け取るのか。
その選択が、人間としての生き方を決める。
僕はエンジンとして受け取ると決めた。
あの夜の無力感を、重荷として背負い続けることもできた。蓋をして、忘れたふりをすることもできた。実際、長いあいだそうしていた。姉のことを友達に話さなかった。見ないふりをしていた。
もうそれはやめた。
あの無力感を燃料にして、走る。一人で背負わせない仕組みを作る。AIを全力で使い倒して、人間がそばにいられる時間を増やす。
これが僕の選択だ。
何に本気になるか、という問い
AIと共存する時代に、人間は何を問われているのか。
技術を使いこなせるかどうか、ではない。
限りある時間を持った存在として、何に本気になるか、という問いだ。
AIは無限に動ける。疲れない。諦めない。だが、本気になれない。本気になる理由がない。
失うものがないから。
問いを渡したかった
この本を通じて、僕が一番伝えたかったことは何か。
結論ではない。安心できる答えでもない。
問いを渡したかった。
AIが提示する最適解を受け取る前に、自分は何を大切にしているのかを考える。その行為を、手放さないでほしい。
身体で感じ、失うことを知り、退屈に耐え、失敗から学び、「なんか違う」と言える人間でいること。それは非効率に見えるが、それこそが創造の条件だ。
30回、読んでくれた人がいる。その人も、失うものがある人間だ。時間を失いながら、この文章を読んでいた。
最後に、告白を一つだけ
僕は怖い。
AIがどれだけ賢くなっても人間には価値がある、と書きながら、心のどこかで「本当にそうか?」という問いが消えない。
みなとんを作りながら、「これは結局、AIが全部やってくれるようになるんじゃないか」と思う夜がある。
朝5時にバーベルを握りながら、「この身体性の話も、いつか意味を失うんじゃないか」と考えることがある。
だが、怖いからこそ本気になれる。
失うかもしれないから、今この瞬間に全力を出す。答えが出ないから、問い続ける。不安が消えないから、走り続ける。
それが、人間だ。
僕はこう生きる
朝は身体を壊すほど動かす。昼は目の前の子どもに全力で向き合う。夜は一人で背負わせない仕組みを作る。
AIを全力で使い倒す。そのうえで、もっと強い人間になる。
母があの夜一人で泣いていた世界を、仕組みで変える。
これが僕の覚悟だ。きれいな結論ではない。迷いもある。怖さもある。迷いながら走ることを、もう恥じない。
失うものがなくなった日に、問いは止まる。その日が来ないことを、僕は祈らない。
この章のポイント
- 「失う」という体験だけが、AIと人間の唯一の非対称性。それが人間を本気にさせる
- 何十回と見てきた子どもの顔の「身体の記憶」が、データより先に異常を検知する
- 失うものをどう受け取るか(重荷か、エンジンか)の選択が、生き方を決める
- 問いたかったのは「技術を使いこなせるか」ではなく「何に本気になるか」
- 怖いからこそ本気になれる。迷いながら走ることを、もう恥じない