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五感のリストラが始まっている

目と耳だけで仕事が完結する日があった。起きる。スマートフォンを見る。パソコンを開く。会議はオンライン。昼食はデリバリー。散歩はしない。誰とも会わない。一日が終わる。僕はその日、何を触ったか。何の匂いを嗅いだか。何の味がしたか。 記憶がない。

診察室は五感をフル動員する

診察室では、五感をフルに使う。泣き声のトーン。皮膚の温度と湿り気。口の中の匂い。腹部を触ったときの緊張度。目の光の反射。

聴診器を当てる前に、すでに多くの情報を手に入れている。これらは電子カルテに記録されない。画像データにならない。でも診断に影響する。

問題は、この情報収集能力が「使わなければ落ちる」ということだ。

使用依存的可塑性

神経科学には「使用依存的可塑性」という概念がある。

脳の領域は、使われるほど発達し、使われなければ縮小する。盲目の人の聴覚野が拡大するのは、聴覚への資源配分が増えるからだ。

逆に言えば、触覚を使わない生活を続ければ、触覚を処理する脳の領域は縮小する。嗅覚を使わない生活を続ければ、嗅覚は鈍化する。

現代の知識労働者の生活は、視覚と聴覚に偏りすぎている。

AIインターフェースの感覚的偏り

AIは視覚と聴覚のインターフェースを通じて機能する。

テキストを読む。音声を聞く。画像を見る。それ以外の感覚は、AI操作に不要だ。

タッチパネルはあるが、圧力を感じるためにあるのではなく、入力のためにある。画面は光を発するが、温度を持たない。AIと対話するとき、人間の触覚・嗅覚・味覚は完全に休眠する。

1日8時間AIと向き合うなら、1日8時間、三つの感覚がオフになっている。

嗅覚と触覚が拾っていた情報

医療において、嗅覚は意外なほど重要だ。

匂い示唆する状態
甘い息糖尿病・ケトアシドーシス
アンモニア臭肝不全
独特の傷の匂い感染

これらを文字で学ぶことはできる。でも実際に嗅がなければ、次に同じ匂いに遭遇したとき、気づけない。

触覚も同様だ。腹部の緊張。リンパ節の質感。皮膚の弾力。これらは手で触れて初めてわかる。文字で読んで「そういうものか」と理解することと、実際に感じることは、全く別のことだ。

教科書通りに何かが足りない

若い医師が診察で「教科書通り」の手順をこなすが、何かが足りないと感じるとき、それはこれだ。

視覚と聴覚で得た情報を処理するのは得意だが、触覚・嗅覚で得た情報の意味がわからない。経験が少ないからではなく、生活の中でその感覚を使ってこなかったから。

AIを使いこなすほど、その傾向は強まる。

失われた感覚が拾っていた情報

失われた感覚が拾っていた情報は、どこへ行くのか。

デジタルには入力されない。AIは処理しない。電子カルテに残らない。

「なんとなく変な感じ」「なんとも言えない匂い」「いつもと違う触感」。これらが診断の補助線になっていた時代が、静かに終わろうとしている。

人間の身体には、まだ活用されていないセンサーが無数にある。

それらを使い続けることで、AIが処理できないデータを収集し続けることができる。

使わなければ、そのセンサーは機能を失う。

あなたが最後に、本当に意識して何かの匂いを嗅いだのは、いつだったか。

この章のポイント

  • 知識労働者の生活は視覚・聴覚に偏り、触覚・嗅覚・味覚が長時間オフになっている
  • 使用依存的可塑性により、使わない感覚は脳レベルで縮小する
  • 嗅覚・触覚は医療診断に影響するが、電子カルテにもAIにも入らない
  • 失われていく感覚が拾っていた情報は、誰も拾わなくなる