ケンタウロスが最強
1997年5月、IBMのDeep Blueがチェス世界王者ガルリ・カスパロフを破った。人類がコンピュータに負けた日として、世界中のニュースが報じた。
その後に起きたことのほうが、はるかに重要だ。
カスパロフ自身が「アドバンスト・チェス」という新しい競技形式を提案した。人間がコンピュータの支援を受けながら対局する。人間+AIの組み合わせだ。
結果は驚くべきものだった。
人間+AIのチームは、人間単独にも勝った。AI単独にも勝った。最強のグランドマスターよりも、最強のチェスエンジンよりも、平凡な人間+平凡なAIの組み合わせのほうが強かった。
カスパロフはこの現象を「ケンタウロス」と名づけた。半人半馬のギリシャ神話の生き物。人間の判断力とAIの計算力が融合した存在。
なぜケンタウロスが最強なのか。
ピーター・ティールは『Zero to One』でこう書いた。
Men and machines are good at fundamentally different things.
(ピーター・ティール『Zero to One』2014年)
人間と機械は、根本的に異なることが得意だ。だから、代替ではなく補完の関係にある。機械は大量のデータを正確に処理できる。人間は文脈を読み、意味を判断できる。両方を組み合わせたときに、どちらか一方では到達できない水準に達する。
ティールの補完性理論は、増幅器の原理そのものだ。AIが増幅するのは、人間が持っている判断力だ。AIが代替するのは、人間がやらなくていい作業だ。この区別を間違えると、AIの使い方を間違える。
サティア・ナデラはAIを「cognitive amplifier」と呼んだ。認知の増幅器。計算の代替装置ではなく、認知の増幅装置。
この言葉の選び方は正確だ。AIがやっているのは、人間の認知能力を拡張することだ。記憶の拡張、パターン認識の拡張、言語処理の拡張。どれも、人間が元々持っている認知機能の延長線上にある。
医療に当てはめてみる。
AIは医療画像の読影で人間の放射線科医を上回るスコアを出すことがある。皮膚科の画像診断でも同様だ。では、放射線科医や皮膚科医は不要になるか。
ならない。
最良の診断者は、医師でもAIでもなく、AIを使いこなす医師だ。
なぜか。診断は画像のパターンマッチだけでは終わらないからだ。患者の訴え、既往歴、生活背景、表情、声のトーン。画像に写らない情報が、診断の精度を決定的に左右する。
私の外来でもそうだ。2歳の子どもが「お腹が痛い」と泣いている。血液検査は正常、エコーも正常。でも、母親の顔が妙に硬い。聞いてみると、最近引っ越したばかりで、子どもが保育園に馴染めていないという。腹痛の原因は、器質的な疾患ではなく、環境変化によるストレスかもしれない。
AIにこの判断はできない。母親の表情を読むことも、「何か他に気になることはありますか」と聞くタイミングを測ることも、AIの管轄外だ。
逆に、鑑別診断を網羅的にリストアップし、それぞれの確率を計算し、見落としがないかをチェックする作業は、AIのほうが圧倒的に速くて正確だ。
人間が文脈を読み、AIが計算する。人間が問いを立て、AIが選択肢を出す。人間が判断し、AIが実行する。
ケンタウロスだ。
この原理を理解している医師と、理解していない医師の間に、すでに差が生まれ始めている。AIを「便利な検索エンジン」として使っている医師と、AIを「認知の増幅器」として使っている医師。前者はAIに答えを聞く。後者はAIに思考を拡張させる。
半人半馬の医師が、これからの時代の最良の医師になる。