言語の限界が世界の限界
Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。
(ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』1921年)
ヴィトゲンシュタインの最も有名な一文だ。言語で表現できないものは、語ることができない。言語の限界が、世界の限界だ。
AI時代に、この命題が新しい意味を持ち始めている。
AIとの対話は、言語で行われる。画像や音声を入力することもできるが、思考の核は言語だ。問いを言語化し、条件を言語化し、期待する出力を言語化する。言語化できないことは、AIに伝えられない。
つまり、あなたの言語の解像度が、AIの出力の上限を決める。
小児科の外来で、これを毎日実感する。
3歳の子どもを連れた親が来る。「お腹が痛いって言うんです」。この一文から、何が読み取れるか。
経験のある小児科医は、この「お腹が痛い」を20以上の鑑別診断に分解する。いつから痛いのか。どこが痛いのか。持続痛か間欠痛か。食事との関係は。排便との関係は。嘔吐はあるか。発熱は。体重減少は。夜中に起きるほどか。学校や保育園で何かあったか。
「お腹が痛い」という言葉は同じでも、問診の解像度によって、たどり着く診断はまったく違う。急性虫垂炎かもしれないし、便秘かもしれないし、心因性腹痛かもしれない。言語の解像度が、診断の解像度を決める。
AIに対しても同じことが起きている。
「良い記事を書いて」と指示する人と、「港区在住の0-3歳児の保護者に向けて、RSウイルスの家庭内感染予防について、エビデンスレベルの高い情報を中心に、800字程度で、不安を煽らないトーンで書いて」と指示する人では、出力が根本的に異なる。
後者は、言語の解像度が高い。何を、誰に、どのように、どれくらいの分量で、どんなトーンで。これらを言語化できるだけの知識と経験がある。
松岡正剛は「編集」という概念を独自に定義した。情報を集めて整理する「編纂」と、情報に意味を与えて新しい文脈を作る「編集」は違う。
AIは編纂が得意だ。大量の情報を集め、整理し、要約する。これは機械的な作業であり、AIの得意領域だ。
一方、編集は人間の仕事だ。何と何を組み合わせるか。どの順番で並べるか。何を捨てるか。この判断には、目的と文脈と美意識が必要だ。
言語化能力は、この「編集」の能力と深く結びついている。何を重要だと思うかを言語化できなければ、AIに伝えることができない。AIは編纂はしてくれるが、編集の方針は人間が言語で与えなければならない。
梶谷健人は「解像度」という言葉をビジネスの文脈で使った。解像度が高いとは、物事を細かく分解して把握できている状態のことだ。解像度が低いとは、物事をぼんやりとしか把握できていない状態のことだ。
AIプロンプトの質は、そのまま言語の解像度の問題だ。
「マーケティング戦略を考えて」は解像度が低い。「港区の30代共働き世帯に向けて、小児科オンライン相談サービスの認知を月間1000UUまで引き上げるための、予算30万円以内のデジタルマーケティング施策を3つ提案して」は解像度が高い。
どちらもAIは答える。でも、前者の出力は汎用的で当たり障りのないものになる。後者の出力は、すぐに実行に移せる具体性を持つ。
ヴィトゲンシュタインに戻る。語り得ぬものについては沈黙しなければならない。裏を返せば、語り得るものが増えれば、世界が広がる。
言語の解像度を上げるということは、世界の解像度を上げるということだ。AIは、あなたの言語の解像度をそのまま増幅する。解像度が高ければ、鮮明な出力が返ってくる。解像度が低ければ、ぼやけた出力が返ってくる。
あなたの言語の限界が、AIの限界だ。