リヒターのぼかし
ゲルハルト・リヒターの絵を初めて見たのは、大学院の頃だった。
写真のように精密に描かれた絵の上から、スキージ(大きなヘラ)で絵具を引きずる。像がぼやける。写真でもなく、絵画でもなく、その中間の何かになる。
最初は意味がわからなかった。なぜわざわざぼかすのか。精密に描けるのに、なぜ壊すのか。
美術史を学ぶうちに、わかってきた。
リヒターがぼかしているのは、情報ではない。確信だ。
写真のように精密な像を見ると、人は「わかった」と思う。見えているものがすべてだと思う。ぼかすと、「わかった」が揺らぐ。見えているものの向こうに、まだ何かがあるのではないかと思い始める。鑑賞者の脳が動き出す。
精密な像は、脳を停止させる。ぼやけた像は、脳を起動させる。
これは、AIプロンプトに対する重要な示唆を含んでいる。
前の章で、言語の解像度を上げることの重要性を書いた。それは正しい。でも、解像度を上げることには限界がある。そして、解像度を上げすぎることの弊害もある。
AIに完璧に精密な指示を与えたとする。出力のフォーマット、トーン、文字数、構成、使用する用語、避けるべき表現、すべてを細かく指定する。AIは忠実にそれに従う。出力は「正確」だ。でも、驚きがない。予想の範囲内に収まる。指示した通りのものが出てくるだけだ。
リヒターの精密な写実画と同じだ。「わかった」で終わる。脳が動かない。
一方、適度な曖昧さを残した指示はどうか。方向性は示すが、具体的な手段は指定しない。何を伝えたいかは明確にするが、どう伝えるかはAIに委ねる。
すると、予想していなかった切り口が出てくることがある。自分では思いつかなかった比喩、考えたことのなかった構成、見落としていた論点。AIの「創発」と呼ばれるものの多くは、この余白から生まれる。
リヒターのぼかしだ。精密さを手放すことで、新しい可能性が開く。
ただし、これは「適当に指示すればいい」という話ではない。リヒターは、まず写真のように精密に描いた上で、意図的にぼかしている。ぼかす前に、精密さがある。何をぼかすかの判断が、ぼかしの質を決める。
つまり、明確な思考があった上で、意図的に余白を作る。これが最良のプロンプトの構造だ。
老子はこう書いた。
為無為、事無事。
為さざるを為し、事なきを事とす。
(老子『道徳経』第六十三章)
為さないことを為す。何もしないことを行う。
これは怠惰の肯定ではない。意図的な「為さなさ」だ。できるのにしない。わかっているのに指定しない。その余白に、予期せぬものが生まれる余地がある。
AIの使い方にも、同じ原理が働く。
あえてAIを使わない判断にも知恵がある。すべてをAIに任せるのではなく、自分の手で考え、自分の言葉で書く時間を残す。その時間は「非効率」に見える。でも、その非効率の中で、自分の思考が鍛えられる。自分の言語の解像度が上がる。
結果として、次にAIを使うときの入力の質が上がる。
リヒターは何十年もこの方法で描き続けた。精密に描いて、ぼかす。また精密に描いて、またぼかす。その往復の中で、写真とも絵画とも違う、リヒターにしか到達できない表現に至った。
AIの使い方も同じだと思う。精密な指示と、意図的な曖昧さの往復。AIに任せる部分と、自分で考える部分の往復。その行き来の中で、AIの増幅効果は最大化される。
完璧な入力から完璧な出力が出るわけではない。精密と曖昧の間、制御と委任の間に、最良の問いがある。
リヒターが教えてくれたのは、そういうことだ。