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生命への侮辱

宮崎駿のAIに対する怒り。増幅器テーゼの反証ではなく補強。痛みを知らない者がAIを使えば、侮辱が増幅されるだけだ。

生命への侮辱

2016年、NHKのドキュメンタリーで印象的な場面があった。

ドワンゴの川上量生がAIの生成映像を宮崎駿に見せた。AIが人体の動きを学習し、不気味な動作で這い回る映像だった。身体障害を持つ友人のことが頭にあった宮崎駿は、こう言った。

これを作る人たちは痛みとか、そういうものについて何も考えないでやってるでしょう。極めて生命に対する侮辱を感じます。

(宮崎駿、NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」2016年)

この言葉は、AIに対する批判として広く引用された。しかし、よく読むと宮崎駿はAIそのものを批判していない。AIを使う人間を批判している。

「これを作る人たちは痛みとか、そういうものについて何も考えないでやってるでしょう」

痛みを知らない人間が、痛みに触れる表現をAIで生成した。そのことに対する怒りだ。

増幅器のテーゼで考えると、この怒りは完全に筋が通る。

痛みへの想像力を持たない者がAIを使えば、痛みへの無配慮が増幅される。生命への敬意を持たない者がAIを使えば、生命への侮辱が増幅される。増幅器は入力を大きくするだけだから、入力が侮辱なら出力も侮辱だ。

宮崎駿の怒りは、増幅器テーゼの反証ではない。むしろ最も強力な補強だ。

宮崎駿自身は、作品の中で痛みを丁寧に描いてきた人だ。ナウシカが腐海の蟲に咬まれて血を流す場面。千尋が走って転ぶ場面。ハウルが心臓を失う恐怖。それらは痛みを知っている人間にしか描けない動きであり、表情であり、間だ。

仮に宮崎駿がAIを使ったらどうなるか。AIに下書きをさせ、自分の目で「この動きは痛みを感じていない」と判別し、修正する。入力の質が違うから、出力の質も違う。

問題はAIではない。入力する人間だ。

デヴィッド・ボウイは1999年、BBCのインタビューでインターネットについてこう語った。

I think we're actually on the cusp of something exhilarating and terrifying.

(デヴィッド・ボウイ、BBC Newsnight 1999年)

興奮と恐怖の瀬戸際にいる、と。インタビュアーが「インターネットはただの道具ではないか」と問うたのに対し、ボウイは強く否定した。電気が発明されたとき、それを「ただの道具」だと言う者はいなかっただろう、と。

ボウイの直感は正しかった。インターネットもAIも「ただの道具」では収まらない。環境を変え、文化を変え、人間のあり方を変える。しかし変え方の方向は、使う人間の中身に依存する。

ボウイ自身は、常に自分の中身を更新し続けた人だった。ジギー・スターダストからベルリン三部作まで、自らの固有性を掘り続け、そのつど新しい表現を生み出した。だからインターネットという増幅器を前にしても、興奮と恐怖の両方を感じ取れた。入力すべきものを持っている人間は、増幅器を恐れながらも使いこなせる。

増幅器に何を入れるか。この問いの重さを、宮崎駿の怒りは教えてくれる。

医療でも同じ構造が存在する。患者の痛みを知らない者が、AIで問診システムを作れば、効率は上がるかもしれないが患者は傷つく。痛みを知る者が作れば、効率も上がり、患者も安心する。同じ増幅器。違う入力。違う出力。

技術の進歩それ自体は善でも悪でもない。増幅器の前で問われるのは、あなたが何を経験し、何を感じ、何を大切にしてきたかだ。

生命に対する侮辱を増幅するか。生命に対する敬意を増幅するか。それを決めるのは、AIではない。あなたの中身だ。