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語れる以上のことを知っている

ポランニーの暗黙知、Naval Ravikantの特殊知識。AIが処理できるのは形式知だけだ。言語化できない経験知こそ、増幅の入力になり得ないもの。

語れる以上のことを知っている

小児科の当直をしていると、たまに「この子は何かおかしい」と感じる瞬間がある。

バイタルサインは正常範囲内。検査値も飛び抜けて悪くない。けれど、何かが引っかかる。泣き方の質。視線の動き。皮膚の色の微妙な変化。保護者の表情。

言語化できない。でも、身体が警告を出している。

この直感で重症を拾い上げた経験が、10年のキャリアの中で何度かある。逆に「この直感を無視して帰宅させていたら」と思うと、今でも冷や汗が出る。

マイケル・ポランニーは1966年、この種の知識に名前をつけた。

We can know more than we can tell.

(マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』1966年)

語れる以上のことを、私たちは知っている。

ポランニーが指摘したのは、人間の知識には二層あるということだ。形式知と暗黙知。形式知は言葉や数式で明示できる知識。暗黙知は言語化できないが確かに機能している知識。

自転車の乗り方を考えてみてほしい。物理学的に正確に説明できる人はほとんどいない。角速度と重心移動の関係、ハンドルの切り角とバランスの微分方程式。でも、5歳の子供が乗れる。身体が知っているからだ。

顔の認識もそうだ。友人の顔を100人の中から瞬時に見分けられる。でも「その友人の顔の特徴を言葉で説明してください」と言われたら、驚くほど貧弱な記述しかできない。

AIは形式知を処理する。言語化されたもの、数値化されたもの、構造化されたものを、圧倒的な速度で処理し、組み合わせ、出力する。

しかし、暗黙知は入力できない。

プロンプトに書けないものを、AIは処理できない。言語化できない直感を、テキストボックスに入力する方法はない。

もちろん、暗黙知の一部を形式知に変換する努力は可能だし、それ自体は価値がある。野中郁次郎のSECIモデルが示したように、暗黙知の言語化は組織学習の核だ。しかし、すべての暗黙知が形式知に変換可能だとは限らない。変換の過程で失われるものがある。

ベテラン寿司職人の握り方を、レシピとして完全に記述できるか。温度、圧力、時間、すべてを数値化したとしても、何かが抜け落ちる。その「何か」がポランニーの言う暗黙知だ。

Naval Ravikantは、この構造を別の言葉で表現した。

Specific knowledge is found by pursuing your genuine curiosity and passion rather than whatever is hot right now.

(Naval Ravikant "How to Get Rich" 2019年)

If you can be trained for it, somebody else can be trained for it, and eventually a computer will be trained for it.

(Naval Ravikant、同上)

訓練で習得できる知識は、いずれコンピュータも習得する。特殊知識は、本人の好奇心と情熱の軌跡の中でしか蓄積されない。

この指摘は鋭い。特殊知識とは、要するに暗黙知のことだ。マニュアル化できない。カリキュラムに落とし込めない。ある特定の人間が、特定の文脈で、特定の時間をかけて身体に刻み込んだもの。

AIにコピーできないのは、だからこの層だ。

私が462本の医療記事をAIで書けたのは、形式知のレバレッジがあったからだ。ガイドラインの知識、疾患の鑑別、治療のアルゴリズム。それらは形式知であり、AIが増幅できる。

しかし、「この記事の優先順位を上げるべきだ」という判断は、暗黙知から来ている。外来で保護者から同じ質問を何度も受けた経験。「この説明で安心した顔をした」「この説明では不安が残った」という蓄積。言語化しきれない臨床の手触りが、記事のテーマ選びを導いている。

増幅器は、形式知を増幅する。暗黙知は増幅の入力にならない。

だからこそ、暗黙知を持つ人間の価値は増す。全員が同じ増幅器を持つ時代に、差を生むのは入力の質だ。そして入力の質を決めるのは、言語化できない経験の厚みだ。

あなたが語れる以上のことを知っている領域はどこか。その領域こそが、AIに代替されない場所だ。