西麻布のジムで、クロスフィットを9年続けている。そこにいる年上の人々が、驚くほど幸せそうに見える。自分と同じメニューをこなし、重いバーベルを挙げ、汗を流し、息を切らしている。なのに、なぜか表情が明るい。「なぜあの人たちはあんなに幸せそうなんだろう?」。その問いが、この連載のタイトルになった。
ジムで観察した「幸せそう」の正体
最初は気のせいだと思っていた。あるいは、もともと明るい人がジムに通っているのだろう、と。でも、何年も同じ場所で過ごしていると、それが単なる選択バイアスではないことに気づく。
入会したばかりの頃、硬い表情でバーベルの前に立っていた人が、半年後には冗談を言いながらワークアウトしている。仕事のストレスで険しい顔をしていた人が、1時間後には汗だくで笑っている。この変化は、偶然ではなかった。
2018年にThe Lancet Psychiatry誌に掲載された、120万人以上を対象とした大規模研究がある[1]。運動をしている人は、していない人に比べて、精神的に不調な日が約43%少なかった。週3〜5回、1回45分程度の運動が最も効果的で、チームスポーツ、サイクリング、有酸素運動の順に効果が高い。クロスフィットは、まさにそのすべてを含んでいる。チームの要素があり、有酸素運動があり、そして何より「一緒にきつい思いをする」という体験がある。
動き続けた結果、自分も「幸せそう」な側にいた
そして自分自身も、続けるうちにだんだん幸せになってきた。最初からそうだったわけではない。動き続けた結果、気づいたら「幸せそう」な側にいた。
この変化には、科学的な説明がつく。運動時に脳内で分泌されるエンドルフィン、セロトニン、ドーパミン、BDNF(脳由来神経栄養因子)。これらの神経化学物質が、気分を高め、ストレスを軽減し、脳の健康を保つ[2]。ハーバード大学T.H.チャン公衆衛生大学院の研究では、1日15分のランニング、または1時間のウォーキングが、うつ病のリスクを26%低減させることが示されている[3]。
でも、論文の数字だけでは伝えきれないものがある。
ワークアウトの最後、床に倒れ込んで天井を見上げるあの瞬間。隣で同じように息を切らしている仲間と目が合って、言葉にならない笑いが漏れるあの感覚。あれは、数値化できない「幸福」そのものだった。
人生とは、自分のことを知る旅である
人生とは、自分のことを知る旅である。
でも自分の目は、外にしか向いていなかった。他人の評価、SNS、仕事の数字。自分のことを見ることは、ほとんどしていなかった。
心理学者のティモシー・ウィルソンは著書Strangers to Ourselvesの中で、人間は自分自身について驚くほど無知であると指摘している[4]。私たちは自分の感情の原因を誤って推測し、将来の感情を正確に予測できず、自分の行動パターンにすら気づいていないことが多い。この「自己認識の欠如」は、現代社会においてますます深刻になっている。
ハッと気づいた時から、すべてが始まった。
動き始めると、運動だけでなく、睡眠や栄養にも関心が向く。食べるのも、眠るのも、動くのも。本当に自分に合っているか、きちんとは分かっていなかった。気分で、都合で、適当にやっていた。体の解像度は、意外と低かった。
スタンフォード大学のアンドリュー・ヒューバーマン教授は、運動が「身体的インテロセプション(内受容感覚)」を高めると説明している[5]。心拍の変化、呼吸のリズム、筋肉の疲労。運動を通じてこれらのシグナルに敏感になることで、自分の体の状態をより正確に把握できるようになる。これが、いわゆる「体の解像度が上がる」ということの科学的な正体だ。
でも動き始めると、少しずつ分かってくる。動いた日はよく眠れる。よく眠れた日は、何を食べたら調子が良いかも見えてくる。自分の体との対話を通じて、食べる・眠る・動くの解像度が、いっしょに上がっていく。
自分の体を謳歌する
自分の体で生まれて、自分の体以外になれない。なら、これを謳歌しよう。そう思うようになってから、いろんなことができるようになってきた。
ギリシャの哲学者たちは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」と言った。これは単なる格言ではない。現代の神経科学は、身体と精神が双方向に影響し合っていることを明らかにしている。ピッツバーグ大学のエリクソンらの研究では、有酸素運動が海馬の体積を約2%増加させ、記憶力を改善することが確認されている[6]。身体を動かすことは、文字通り脳の構造を変える行為なのだ。
この連載では、なぜ動く人が幸せそうに見えるのか、科学的な裏付けと自分の体験を交えながら、書いていきたい。医師として病院で見てきたこと、9年間のクロスフィットで学んだこと、働く人として気づいたこと。
動くことは、自分を知る旅の入口になる。その話を、これから続けていく。
この章のポイント
- ジムで年上の人々が「幸せそう」に見えるのは選択バイアスではなく、動き続けた結果としての変化である
- 大規模研究(120万人)では、運動する人は精神的に不調な日が約43%少ない
- 運動はインテロセプション(内受容感覚)を高め、「体の解像度」を上げる科学的プロセスである
- 動くことは、自分を知る旅の入口になる
参考文献 [1] Chekroud SR, et al. Association between physical exercise and mental health in 1.2 million individuals in the USA. The Lancet Psychiatry. 2018;5(9):739-746. [2] Dishman RK, et al. Neurobiology of exercise. Obesity. 2006;14(3):345-356. [3] Choi KW, et al. Assessment of Bidirectional Relationships Between Physical Activity and Depression Among Adults. JAMA Psychiatry. 2019;76(4):399-408. [4] Wilson TD. Strangers to Ourselves: Discovering the Adaptive Unconscious. Harvard University Press. 2002. [5] Huberman A. The Science of Exercise & the Brain. Huberman Lab Podcast. 2021. [6] Erickson KI, et al. Exercise training increases size of hippocampus and improves memory. PNAS. 2011;108(7):3017-3022.