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なぜ動く人は、幸せそうなのか

西麻布のジムで、クロスフィットを9年続けています。そこにいる年上の人々が、驚くほど幸せそうに見えます。自分と同じメニューをこなしている。重いバーベルを挙げ、汗を流し、息を切らしている。なのに、なぜか表情が明るいのです。「なぜあの人たちは、あんなに幸せそうなんだろう?」。この問いが、ずっと頭にありました。

共通点はただ一つ、「動いている」こと

最初は「余裕があるからだろう」と思っていました。時間があるから運動できる。お金があるからジムに通える。でも、よく見ると違いました。忙しい人も、そうでない人もいる。経営者もいれば、会社員もいる。子育て中の人もいれば、定年後の人もいる。共通点はただ一つ。「動いている」ということだけでした。

この観察は、私個人の感想にとどまりません。オックスフォード大学とイェール大学の共同研究チームが120万人以上のアメリカ人を対象に行った調査では、定期的に運動する人は、しない人に比べて「精神的に不調な日」が年間で約18日少なかったと報告されています[1]。年収に換算すると、運動がもたらすメンタル面の効果は、年収が約25,000ドル増えることと同等のインパクトがあるとも推定されました。つまり、「動いている」ということ自体が、お金では買えない幸福感を生んでいるのです。

そして自分自身も、続けるうちにだんだん幸せになってきました。最初からそうだったわけではありません。動き続けた結果、気づいたら「幸せそう」な側にいたのです。

PERMA理論で読み解く「幸せそう」の正体

この「幸せそう」の正体は何でしょうか。

ポジティブ心理学の創始者マーティン・セリグマンは、人間の幸福(ウェルビーイング)を5つの要素で説明しています。PERMA理論と呼ばれるものです[2]。Positive Emotion(ポジティブな感情)、Engagement(没頭)、Relationships(人間関係)、Meaning(意味)、Achievement(達成感)。

クロスフィットのジムで起きていることを、この5つに当てはめてみると、驚くほどきれいに重なります。

PERMAの5要素ジムで起きていること
Positive Emotion(ポジティブな感情)きつい運動の後に訪れる高揚感
Engagement(没頭)目の前のワークアウトに集中しているときの没入状態
Relationships(人間関係)毎日顔を合わせる仲間との絆
Meaning(意味)自分の体と向き合い、健康を追求するという意味づけ
Achievement(達成感)昨日より1kg重いバーベルが挙がったという小さな達成

つまり、運動。とりわけコミュニティのある運動は、幸福の5つの要素すべてを同時に満たしうるのです。これが、ジムにいる人たちが幸せそうに見える構造的な理由だと、私は考えています。

「症状をよくする」のではなく「その人をよくする」

今日から、この問いを連載として書いていきます。

私は医師です。病院で患者さんを診ながら、ずっと感じてきた違和感があります。病気になってから来る人が多い。症状はよくしている。でも、「その人をよくしている」のかはわからない。それ以前にできることがあるのではないか。そんな思いが、この連載の出発点の一つです。

日本の現状を数字で見ると、この違和感はさらに鮮明になります。WHOの報告によれば、世界の成人の約27.5%が身体活動不足の状態にあり、日本では成人の約3人に1人が運動不足とされています[3]。一方で、日本のフィットネスクラブ参加率はわずか3%台。アメリカの約20%、イギリスの約15%、北欧諸国の20%超と比べると、圧倒的に低い水準です[4]。

この数字の背景には、「運動=つらい」「ジム=マッチョの場所」「忙しくて時間がない」という根強いイメージがあるのかもしれません。でも、私がジムで見てきた現実はまったく違います。60代で初めてバーベルを握った人、産後の体力回復のために通い始めた人、デスクワークの腰痛を何とかしたくて来た人。入口は様々ですが、続けている人は例外なく、始める前より生き生きとしています。

もう一つの出発点は、自分自身の体験です。9年間クロスフィットを続ける中で、体だけでなく、睡眠も、食事も、メンタルも変わっていきました。動くことが、すべてのトリガーになっていた。ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・スポーツ・メディシンに掲載されたメタアナリシスでは、運動はうつ症状に対して、心理療法や薬物療法と同等かそれ以上の効果がある可能性が示されています[5]。自分の実感は、科学的にも裏づけられていたのです。

連載の3つの視点。科学・体験・文化

この連載では、3つの視点から「なぜ動く人は幸せそうなのか」を掘り下げていきます。

科学。運動が生産性、メンタル、医療費にどう影響するか。最新の論文データで示します。たとえば、運動習慣のある従業員は、そうでない従業員に比べて生産性が約15%高いというリーズ・メトロポリタン大学の研究[6]。あるいは、定期的な運動が認知症リスクを最大30%低減するというメタアナリシスの結果[7]。数字で語れることは、しっかり数字で語ります。

体験。医師として病院で見てきたこと。9年間のクロスフィットで学んだこと。働く人として気づいたこと。データだけでは伝わらない、体の中から湧き上がる実感を言葉にしていきます。

文化。なぜ日本のフィットネス参加率は3%台なのか。海外との違い。AI時代に身体を鍛える意味。シリコンバレーのテックリーダーたちが、なぜこぞって身体に投資しているのか。この時代における「動く」の文化的意味を考えます。

動くことは、自分を知る旅の入口になる

動くことは、自分を知る旅の入口になります。

世界保健機関(WHO)は、身体活動不足を「世界第4位の死亡リスク因子」と位置づけています[3]。年間約320万人が運動不足に起因する疾患で亡くなっている計算です。しかし、この連載は「運動しないと死にますよ」という脅しの話ではありません。

むしろ逆です。動くことで、人生が豊かになる。体の声が聞こえるようになる。自分のことがもっとわかるようになる。

その先にある「幸せそうな人」の景色を、一緒に見に行きませんか。この連載が、あなたの最初の一歩のきっかけになれば嬉しいです。

明日は「人生とは、自分のことを知る旅である」という話を書きます。

この章のポイント

  • ジムにいる人々の共通点はただ一つ、「動いている」こと。職業も年齢も関係ない
  • 120万人調査では、運動する人の幸福効果は年収25,000ドル増に匹敵する
  • セリグマンのPERMA理論の5要素(感情・没頭・関係・意味・達成)を、コミュニティのある運動はすべて同時に満たす
  • 連載は「科学・体験・文化」の3視点で、動く人が幸せそうな理由を掘り下げる

参考文献 [1] Chekroud SR, et al. Association between physical exercise and mental health in 1.2 million individuals in the USA. The Lancet Psychiatry. 2018;5(9):739-746. [2] Seligman MEP. Flourish: A Visionary New Understanding of Happiness and Well-being. Free Press. 2011. [3] World Health Organization. Physical activity fact sheet. 2024. [4] IHRSA. Global Report on the State of the Health Club Industry. 2023. [5] Singh B, et al. Effectiveness of physical activity interventions for improving depression, anxiety and distress: an overview of systematic reviews. British Journal of Sports Medicine. 2023;57(18):1203-1209. [6] Coulson JC, et al. Exercising at work and self-reported work performance. International Journal of Workplace Health Management. 2008;1(3):176-197. [7] Livingston G, et al. Dementia prevention, intervention, and care: 2020 report of the Lancet Commission. The Lancet. 2020;396(10248):413-446.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第1回です。