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人類は医療を再発明できるか

第4部の最後に、少し大きな話をさせてください。医療の未来は「病院の中」ではなく、「日常の中」にあると思っています。そして、その変化の中心に「運動」があると確信しています。

「壊れたら直す」モデルの限界

現在の医療モデルは、「壊れたら直す」が基本です。病気になる → 病院に行く → 診断される → 治療する → 回復する(あるいは、慢性化する)。

このモデルは、19世紀から20世紀にかけて、人類の平均寿命を劇的に延ばしました。抗生物質の発見、外科手術の進歩、ワクチンの開発。感染症や外傷に対して、このモデルは極めて有効でした。

しかし、21世紀の疾患構造は根本的に変わっています。

WHOの統計によると、世界の死因の約71%は非感染性疾患(NCD)。心血管疾患、がん、慢性呼吸器疾患、糖尿病。が占めています[1]。日本では、この割合はさらに高く約80%に達します。そしてこれらの疾患の多くは、生活習慣に深く根ざしています。

生活習慣病に対する「壊れたら直す」モデルの限界は、数字が物語っています。

指標数字
日本の国民医療費(2022年度)[2]約45兆円
うち生活習慣病関連約12兆円
糖尿病の患者数約1,000万人
予備群含む糖尿病約2,000万人

これらの数字は毎年増え続けており、「壊れたら直す」アプローチでは医療システム自体が持続不可能になりつつあります。なぜなら、「壊れた後」ではなく「壊れる前」に介入すべき問題だからです。

Precision Health。病気になる前の個別化

ここで、「プレシジョン・ヘルス(Precision Health)」という概念を紹介させてください。

2015年、オバマ大統領(当時)が「Precision Medicine Initiative」を発表し、個人の遺伝情報、環境、生活習慣に基づいたオーダーメイド医療の推進を宣言しました[3]。この概念はその後さらに発展し、「Precision Medicine(精密医療)」から「Precision Health(精密健康)」へと広がりつつあります。

Precision Medicineが「病気になった後の個別化された治療」であるのに対し、Precision Healthは「病気になる前の個別化された予防」です。

スタンフォード大学のマイケル・スナイダー博士は、この分野のパイオニアです。彼は自身の体で400以上のバイオマーカーを継続的にモニタリングし、2型糖尿病の発症前兆をウェアラブルデバイスのデータから検出することに成功しました[4]。「症状が出る前に、データが異変を知らせる」という新しいパラダイムの実証です。

AI、ウェアラブル、ゲノム解析。テクノロジーは、「壊れる前」に介入する能力を私たちに与えつつあります。

テクノロジーの現在地。4つのレイヤー

具体的に見ていきましょう。

ゲノム解析。遺伝的リスクを事前に把握できる時代になりました。全ゲノムシーケンシングのコストは、2001年のヒトゲノム計画完了時の約30億ドルから、2024年には約200ドル以下にまで低下しています[5]。ポリジェニックリスクスコア(PRS)と呼ばれる手法により、心血管疾患、2型糖尿病、乳がんなどの発症リスクを遺伝情報から推定できるようになっています。

「あなたは2型糖尿病の遺伝的リスクが上位10%に入っています」。この情報を20代で知ることができれば、40代で発症する前に生活習慣を変えるモチベーションが生まれます。

ウェアラブル。前回(第60回)で詳しく書いた通り、24時間365日の連続モニタリングが可能になっています。Apple WatchのECG機能による心房細動の検出[6]、Oura Ringの体温データによる感染症の早期検知、連続血糖モニター(CGM)によるリアルタイムの血糖値追跡。これらは「医療の脱病院化」を実現するテクノロジーです。

AI。第61回で議論した通り、AIは個別化された運動処方、栄養指導、行動変容支援を提供できる段階に達しつつあります。さらに、AIは膨大な医学文献と個人データを統合し、「この患者に最適な予防戦略」を提案する能力を持ちつつあります。

デジタルバイオマーカー。スマートフォンの使用パターンからうつ病の兆候を検出する研究[7]、歩行パターンの変化からパーキンソン病の早期診断を行う研究、音声データから心不全の悪化を予測する研究。日常のデジタル行動そのものが、健康状態のバイオマーカーになりつつあります。

これらのテクノロジーが統合された時、医療は根本的に変わります。

予防の中心にある「運動」。エビデンスの全体像

そして、その予防の中心にあるのが「動くこと」です。

これは、この連載を通じて繰り返し述べてきたことですが、最後にエビデンスの全体像をまとめておきたいと思います。

領域効果根拠
心血管疾患リスク低減約30〜40%[8]
2型糖尿病予防効果約60%(薬物治療より効果的)[9]
大腸がん・乳がんリスク低減約20〜30%[10]
うつ病軽〜中等度で抗うつ薬と同等[11]
認知症発症リスク低減約30%[12]
その他骨粗鬆症・サルコペニア・転倒・テロメア・エピジェネティック年齢・ミトコンドリア

これほど広範な効果を持つ「薬」は、人類史上存在しません。

もし運動が薬だとしたら、間違いなく史上最も処方される薬になるでしょう。実際、「Exercise is Medicine」(運動は薬である)というグローバルイニシアチブが、ACSMの主導で2007年から展開されています[13]。これは、医療者が患者に対してバイタルサインと同様に身体活動量を評価し、運動を処方するべきだという運動です。

私が見ている未来の医療。AI×ウェアラブル×運動

予防医療 × AI × 運動。この組み合わせが、医療を「治す」から「壊れない」へと再発明する可能性を持っています。

私が見ている未来の医療の姿は、こうです。

あなたのゲノムデータ、ウェアラブルからのリアルタイム生体データ、生活習慣のデータがAIによって統合分析される。AIは「あなたの場合、週3回の中強度有酸素運動と週2回のレジスタンストレーニングを行うことで、2型糖尿病の発症リスクを42%低減できます。具体的には、月・水・金に30分のウォーキング(心拍数120〜140の範囲で)、火・木にスクワット・デッドリフト・プレスを中心とした全身トレーニングを推奨します」とアドバイスする。

ウェアラブルがリアルタイムで心拍数、HRV、血糖値をモニターし、「今日は回復が不十分なので強度を下げましょう」「昨日の夕食後の血糖スパイクが大きかったので、今日は食後に15分歩きましょう」とフィードバックする。

AIコーチが、あなたの行動パターンを学習し、「明日は雨の予報ですが、いつも雨の日は運動をスキップする傾向があります。室内でできるワークアウトを提案しますか?」と先回りして支援する。

そして3か月ごとの血液検査で、エピジェネティック年齢、テロメア長、炎症マーカー、代謝パネルがチェックされ、プログラムが微調整される。

これは空想ではありません。すべての要素技術はすでに存在しています。あとは統合するだけです。

テクノロジーは人間を置き換えない。Deep Medicineの視点

しかし、テクノロジーだけでは不十分だということも、この連載を通じて繰り返し述べてきました。

最も重要なのは、テクノロジーの力を借りながらも、最終的には「自分の体で動く」ということです。AIは処方できるが、あなたの代わりに走ることはできない。ウェアラブルはデータを集められるが、あなたの代わりにバーベルを持ち上げることはできない。ゲノム解析はリスクを示せるが、リスクを下げるのはあなた自身の行動です。

私がこの連載を書いているのは、この可能性を多くの人に伝えたいからです。医師として病院の中で見てきたこと。慢性疾患で苦しむ患者さんの多くが、「もっと早く予防できていたら」というケース。クロスフィッターとして9年間動き続けてわかったこと。運動が体だけでなく、心、思考、人間関係、そして人生全体を変える力を持っていること。その交差点から見える景色を、言葉にしたい。

エリック・トポル博士は著書『Deep Medicine』の中で、AIが医療を「より人間的に」する可能性を論じています[14]。AIが診断や事務作業を引き受けることで、医療者は患者とのコミュニケーション、生活指導、予防医療により多くの時間を割けるようになる。

テクノロジーの目的は、人間を置き換えることではなく、人間を解放することだ。

同じことが、運動とテクノロジーの関係にも言えます。AIやウェアラブルの目的は、人間の身体を置き換えることではなく、人間の身体の可能性を最大限に引き出すことです。

残るのは「どうやって」

次の第5部では、具体的に「どう始めるか」を書きます。ここまで読んでくださった方は、なぜ動くべきかはもうわかっているはずです。

AI時代に「頭の仕事」が代替される中で、身体の価値が上がること(第56回)。テクノロジーの最前線にいる人たちが身体に投資する理由(第57回)。人間の体が本来求める「原始的な動き」の意味(第58回)。運動が脳にアップデートパッチを送るメカニズム(第59回)。ウェアラブルとAIが自己理解を深めること(第60回)。AIの運動処方の可能性と限界(第61回)。老化を「測定可能なプロセス」として捉える視点(第62回)。ミトコンドリアという「発電所」のリノベーション(第63回)。何歳からでも体は応答するというエビデンス(第64回)。そして、医療を「治す」から「壊れない」へ再発明する可能性(本稿)。

残るのは「どうやって」です。

この章のポイント

  • 21世紀の死因の71%はNCD。「壊れたら直す」モデルは医療システムごと持続不可能になりつつある
  • Precision Health=病気になる前の個別化。ゲノム・ウェアラブル・AI・デジタルバイオマーカーで要素技術は揃った
  • 運動は心血管・糖尿病・がん・うつ・認知症のすべてに効く、人類史上最も広範な「薬」
  • テクノロジーは人間の身体を置き換えるのではなく、その可能性を解放する。残るのは「どうやって」

参考文献 [1] World Health Organization. Noncommunicable diseases: Key facts. WHO. 2023. [2] 厚生労働省. 令和4年度国民医療費の概況. 2024. [3] Collins FS, Varmus H. A new initiative on precision medicine. N Engl J Med. 2015;372(9):793-795. [4] Li X, et al. Digital health: tracking physiomes and activity using wearable biosensors reveals useful health-related information. PLoS Biol. 2017;15(1):e2001402. [5] National Human Genome Research Institute. The cost of sequencing a human genome. NHGRI. 2024. [6] Perez MV, et al. Large-scale assessment of a smartwatch to identify atrial fibrillation. N Engl J Med. 2019;381(20):1909-1917. [7] Saeb S, et al. Mobile phone sensor correlates of depressive symptom severity in daily-life behavior. J Med Internet Res. 2015;17(7):e175. [8] Shiroma EJ, Lee IM. Physical activity and cardiovascular health: lessons learned from epidemiological studies. Circulation. 2010;122(7):743-752. [9] Knowler WC, et al. Reduction in the incidence of type 2 diabetes with lifestyle intervention or metformin. N Engl J Med. 2002;346(6):393-403. [10] Moore SC, et al. Association of leisure-time physical activity with risk of 26 types of cancer. JAMA Intern Med. 2016;176(6):816-825. [11] Blumenthal JA, et al. Exercise and pharmacotherapy in the treatment of major depressive disorder. Psychosom Med. 2007;69(7):587-596. [12] Livingston G, et al. Dementia prevention, intervention, and care: 2020 report of the Lancet Commission. Lancet. 2020;396(10248):413-446. [13] Lobelo F, et al. The Exercise is Medicine Global Health Initiative. Br J Sports Med. 2014;48(22):1627-1633. [14] Topol EJ. Deep Medicine: How Artificial Intelligence Can Make Healthcare Human Again. Basic Books. 2019.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第65回です。 前回 → 第64回「50代から始めても遅くない。細胞は応える」 次回から → 第5部「実践。動き始めるためのガイド」