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Physical 100が映す時代の空気

Netflixの「Physical 100」が世界中でヒットしました。100人の鍛え上げられた体を持つ参加者が、身体能力だけで競い合うサバイバル番組。韓国発のこの番組がなぜこれほど多くの人を惹きつけたのか。

この問いの答えは、単なるエンターテインメント論を超えて、私たちが今生きている時代の「空気」を映し出しています。

「Physical 100」の衝撃

Physical 100は2023年1月にNetflixで配信が開始され、短期間で世界のNetflixランキングの上位に入りました。韓国の非英語コンテンツとしては「イカゲーム」以来の世界的ヒットとなり、シーズン2も制作されています。

この番組の独自性は、出演者の「身体」そのものがコンテンツであることです。オリンピック選手、ボディビルダー、クロスフィッター、格闘家、ダンサー、消防士、軍人。あらゆるジャンルの「鍛えた体」を持つ100人が集まり、純粋な身体能力で競い合う。知識や話術や戦略ではなく、「体が動くかどうか」だけが勝敗を決めます。

番組冒頭で出演者たちが自分の体の石膏像を作るシーンは象徴的です。自分の体を文字通り「作品」として展示する。前回の記事で「身体は彫刻である」と書きましたが、Physical 100はそれを映像で可視化した番組です。

視聴者が惹きつけられたのは、「肉体美」だけではありません。体力が拮抗する者同士の対決で見せる精神力、追い詰められた時の判断力、仲間のために体を張る姿。これらの「人間ドラマ」が、身体という舞台の上で展開されるからこそ、リアルで、生々しく、胸を打つのです。

AIの時代に人々が「身体」に惹かれる理由

AIの時代に、人々は「身体」に惹かれ始めています。

ChatGPTが知識労働を代替し、画像生成AIがクリエイティブを自動化し、コーディングすらAIが肩代わりする時代。「頭の仕事」の価値は、急速に変わりつつあります。

そんな時代に、「鍛えた体で限界に挑む人間」を見て感動する。これは偶然ではないと思います。

哲学者ヒューバート・ドレイファスは、AIの限界について早くから指摘していました[1]。ドレイファスの議論の核心は、人間の身体的な経験。重さを感じること、疲労を経験すること、痛みを乗り越えること。は、情報処理に還元できないというものでした。AI研究者のマーヴィン・ミンスキーやジョン・マッカーシーがAIの万能性を唱えた時代に、ドレイファスは「身体を持たないAIには限界がある」と主張し続けました。

2020年代に入り、大規模言語モデル(LLM)が知的作業の多くを代替可能にする中で、ドレイファスの問いは新たな切実さを帯びています。「AIにできないこと」が急速に減っている時代に、「AIには絶対にできないこと」として残るのは、「身体を使って何かを体験すること」です。

Physical 100の人気は、この時代感覚と無関係ではありません。AIが文章を書き、絵を描き、音楽を作る時代に、「人間が汗を流して限界に挑む姿」に人々が惹かれるのは、そこに「代替不可能な人間らしさ」を感じ取っているからではないでしょうか。

サンデルの問い。スポーツは何を「生産」しているのか

スポーツの価値について、哲学者のマイケル・サンデルが興味深いことを書いています。

スポーツ選手は何かを「生産」しているわけではありません。車を作っているわけでも、ソフトウェアを開発しているわけでもない。でも、人はそこに価値を見出し、感動する[2]。

なぜか。

サンデルは著書『それをお金で買いますか』(What Money Can't Buy)の中で、市場原理が浸透しすぎた社会に警鐘を鳴らしています。すべてのものに値段をつけ、効率と生産性で評価する社会は、「市場では測れない価値」を見失う危険があると。

スポーツの価値は、まさに「市場では測れない」ものです。

それは、人間の身体が持つ可能性。限界への挑戦、努力の軌跡、偶然と必然のドラマ。が、経済的な「生産」とは別の次元で人の心を動かすからです。

サンデルは別の著書『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(The Case Against Perfection)で、遺伝子工学によるエンハンスメント(能力増強)がスポーツの価値を損なう可能性について論じています[3]。もしドーピングや遺伝子操作で「完璧な体」が作れるようになったら、スポーツを見る意味はあるのか。サンデルの答えは「ない」です。なぜなら、スポーツの価値は「努力と才能の相互作用」にあり、その過程の「不確実さ」こそが感動を生むからです。

Physical 100が見せるのは、まさにこの「不確実さ」です。オリンピック選手が予想外に脱落し、無名の消防士が勝ち上がる。身体能力が高い者が常に勝つわけではなく、精神力、戦略、そして運が絡み合う。この「何が起きるかわからない」という要素が、視聴者を画面に釘付けにするのです。

メルロ=ポンティの「身体の現象学」

フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、「身体の現象学」を展開し、人間の経験の根底に「身体」があることを論じました[4]。

メルロ=ポンティによれば、私たちは「身体を持っている」のではなく、「身体として存在している」。世界を認識するのは脳ではなく、身体全体です。手で触れ、足で歩き、目で見る。これらの身体的経験の総体が、私たちの「世界」を構成している。

この視点からすれば、Physical 100の出演者が見せているのは、「最も濃密な形での人間的存在」です。全身の筋肉を使い、心肺を限界まで追い込み、痛みと疲労の中で判断する。デスクワークでは使われない身体の能力が、ここでは全開になる。

AI時代に「身体」が再評価されているのは、メルロ=ポンティが予見していた問題。「精神と身体の分離」。が、テクノロジーによってさらに加速しているからかもしれません。画面の前で「頭」だけを使う時間が増えるほど、人は「身体」への飢餓感を抱く。Physical 100の人気は、その飢餓感の表れとも読めるのです。

「あなたの代わりに走ることはできない」

Physical 100を見ていて感じるのは、AIがどれだけ進化しても「体を動かすこと」だけはAIに代替できない、ということです。

AIはあなたの代わりに考えることはできます。書くことも、描くことも、計算することもできます。

でも、あなたの代わりに走ることはできません。

あなたの代わりにバーベルを持ち上げることも、あなたの代わりに汗をかくことも、あなたの代わりに「きつい」と感じることもできません。

この「代替不可能性」が、AI時代における身体の価値を高めています。

経済学者タイラー・コーエンは、AI時代に「人間に残される仕事」について論じる中で、「身体を使う仕事」「対面での共感を必要とする仕事」「予測不可能な状況への適応を要する仕事」を挙げています[5]。これらはすべて、「身体」を核とした能力です。

Physical 100は、エンターテインメントであると同時に、一つの時代のメッセージです。「人間の価値は、頭の中だけにあるのではない。体を動かし、限界に挑み、汗を流すことの中にも、かけがえのない価値がある」と。

次の時代へ

頭の仕事がAIに移る時代だからこそ、「動く」ことの意味が増している。

Physical 100を見て「すごいな」と思った人は、すでにそのことに気づいているのかもしれません。出演者のような体を目指す必要はありません。でも、「体を動かすことに価値がある」と感じた直感は、正しいものです。

次の第4部では、この「AI時代の身体」について、さらに深く掘り下げていきます。

この章のポイント

  • Physical 100の世界的ヒットは、AI時代に人々が身体的体験へ飢えていることの表れ
  • ドレイファスやメルロ=ポンティが論じた「身体の不可還元性」が、LLM時代に新たな切実さを持つ
  • サンデルが言うように、スポーツの価値は不確実さと努力の相互作用にある
  • AIはあなたの代わりに考えられても、あなたの代わりに走ることはできない

参考文献 [1] Dreyfus HL. What Computers Can't Do: The Limits of Artificial Intelligence. MIT Press, 1972. [2] Sandel MJ. What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets. Farrar, Straus and Giroux, 2012. [3] Sandel MJ. The Case Against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering. Harvard University Press, 2007. [4] Merleau-Ponty M. Phenomenology of Perception. Routledge, 1945/2012. [5] Cowen T. Average Is Over: Powering America Beyond the Age of the Great Stagnation. Dutton, 2013.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第53回です。 前回 → 第52回「身体は彫刻である」