プロ野球選手の年俸は数億円。サッカーのトップ選手は数十億円。彼らは、何を「生産」しているのでしょうか。
「生産」しない人たちの価値
工場で車を作る人は、物理的な製品を生産しています。プログラマーはソフトウェアを、農家は食料を生産しています。
ではスポーツ選手は? 厳密には、何も「生産」していません。ボールを蹴る。バットを振る。100メートルを走る。GDP統計上は、エンターテインメント産業の一部です。
でも、サッカーW杯の決勝で、最後の瞬間にゴールが決まった時、スタジアムの10万人が、テレビの前の10億人が、同時に叫ぶ。あの感動を「エンターテインメント」の一語で片付けていいのでしょうか。
2022年のカタールW杯決勝、アルゼンチン対フランス。メッシとエムバペが繰り広げた120分間のドラマは、世界中で約15億人が視聴したとされています。あの試合を見た人なら誰もが覚えているはずです。延長戦、PKの緊張、メッシの涙。あの瞬間に生まれた「何か」は、GDPに計上されるのでしょうか。
されません。でも、それが「価値がない」ことを意味するのでしょうか。
サンデルの市場主義批判
サンデルは、市場が測れないものがあると指摘しています[1]。
友情は売買できません。尊敬も、感動も、挑戦する人を見たときの震えも。
サンデルの議論をもう少し掘り下げましょう。彼が問題にしているのは、「市場が万能ではない」というだけの話ではありません。市場原理がすべての領域に浸透することで、本来市場で扱うべきでないものの価値が「腐食」される(corrupted)、という主張です[1]。
例えば、友情に値段をつけたら、それはもう友情ではなくなります。献血をボランティアから有料にしたら、献血の「利他性」という価値が損なわれます。同様に、スポーツの価値を「年俸」や「放映権料」や「スポンサー収入」だけで測ったら、スポーツの本質的な価値。人間の限界への挑戦、努力と才能の交差点で生まれるドラマ。が見えなくなります。
経済学者のアマルティア・センも同様の議論を展開しています[2]。センは、人間の「福祉」を所得や消費だけで測ることの限界を指摘し、「ケイパビリティ(潜在能力)」。人が実際に「できること」「なれること」。を評価の基準にすべきだと主張しました。
運動やスポーツは、まさにこの「ケイパビリティ」を拡張する行為です。走れるようになること。重いものを持てるようになること。自分の体をコントロールできるようになること。これらの「できること」の拡張は、数値化が難しくても、人間の幸福にとって本質的な価値を持っています。
スポーツが生み出す「内在的価値」
哲学者のアラスデア・マッキンタイアは、「実践(practice)」の概念を通じて、スポーツの価値を論じています[3]。マッキンタイアによれば、すべての「実践」には「外在的善」と「内在的善」があります。
外在的善とは、その活動の外にある報酬。お金、名声、トロフィー。これらは、その活動以外の方法でも手に入れることができます。
内在的善とは、その活動を行うことでしか得られない固有の充実感です。チェスをプレイする時の知的興奮。楽器を演奏する時の一体感。スポーツにおける身体的な没入感と、限界を超えた瞬間の恍惚。
プロスポーツの世界では、外在的善(年俸、スポンサー)が大きくなりすぎて、内在的善が見えにくくなることがあります。でも、選手たちが怪我を押して復帰し、引退を何度も撤回し、身体が悲鳴を上げてもなお競技を続ける理由は、外在的善だけでは説明できません。そこには、お金では買えない「内在的善」。プレイする喜び、競争の中で感じる生の充実。があるのです。
スポーツの価値は、まさにそこにあります。人間が自分の身体の限界に挑み、時にそれを超える。その過程で見せる努力、苦悩、歓喜。これは数字では測れません。
「小さな超越」の価値
そして、この「測れない価値」は、プロスポーツだけのものではありません。
朝、ジムでバーベルを持ち上げる。先週よりも2.5kg重いものが上がった。誰も見ていない。SNSにも投稿しない。でも、自分だけが知っている成長がある。
この「小さな超越」にも、測れない価値があると思うのです。
フランスの哲学者ガブリエル・マルセルは、「存在」と「所有」を区別しました[4]。所有(avoir)は測定可能です。銀行口座の残高、不動産の面積、フォロワー数。しかし、存在(être)。自分がどういう人間であるか、どう生きているか。は測定できません。
毎朝ジムに通い、少しずつ体を変えていく。その過程で得られる自己理解、粘り強さ、充実感。これらは「所有」の次元では語れない、「存在」の次元の価値です。
マラソンランナーが42.195kmを走り切った後に感じる深い充足感。クロスフィッターが全力を出し切った後の、静かな満足感。これらを「カロリー消費量」や「走行距離」の数字で説明することはできません。数字は「外側」を記述しますが、「内側」で起きていることは記述できないのです。
「非生産的」であることの価値
社会学者のロジェ・カイヨワは、遊びとスポーツの本質を「非生産性」に見出しました[5]。遊びは何も生産しません。ゲームが終わった後、物質的には何も変わっていない。しかし、そのプロセスの中で参加者が経験したこと。興奮、集中、達成感、悔しさ。は、人間の経験を豊かにします。
ヨハン・ホイジンガも『ホモ・ルーデンス』(遊ぶ人)で、文化の根底に「遊び」があると論じました[6]。法律も、芸術も、宗教も、元をたどれば「遊び」の精神から生まれている。スポーツは、その「遊び」の最も純粋な形態の一つです。
「非生産的」であることが、逆に最も人間的であるということ。効率化と生産性の追求に疲弊した現代社会において、この逆説はますます重要になっています。
AI時代の「測れない価値」
AI時代に、数値化できることの価値は下がり続けます。計算も、分析も、翻訳も、AIがやってくれるからです。
データ分析はAIが瞬時にこなします。文章はAIが書きます。画像はAIが生成します。「数値化可能なアウトプット」の生産コストが限りなくゼロに近づく時代に、何が「価値」として残るのか。
残るのは、数字では測れないもの。自分の体で感じること、体を通じて得る実感、限界に挑む体験。
経済学者のケヴィン・ケリーは、AI時代に価値が高まるものとして「体験」「関係性」「信頼」を挙げています[7]。これらはすべて、身体を通じた「リアルな経験」と深く結びついています。バーチャルな世界が拡張するほど、リアルな身体的体験の希少性。そして価値。が高まるのです。
スポーツの価値が測れないのと同じように、あなたが毎朝動くことの価値も、測れないのかもしれません。
でも、測れないからといって、価値がないわけではありません。むしろ、測れないからこそ、価値があるのかもしれません。
この章のポイント
- スポーツは何も「生産」しないが、サンデルが言うように市場で測れない価値を持っている
- マッキンタイアの「内在的善」は、その活動の中でしか得られない固有の充実感である
- カイヨワやホイジンガが論じたように、「非生産的」であることこそが最も人間的である
- AI時代に数値化可能なアウトプットの価値は下がる。残るのは身体を通じた測れない経験
参考文献 [1] Sandel MJ. What Money Can't Buy: The Moral Limits of Markets. Farrar, Straus and Giroux, 2012. [2] Sen A. Development as Freedom. Knopf, 1999. [3] MacIntyre A. After Virtue: A Study in Moral Theory. University of Notre Dame Press, 1981. [4] Marcel G. Being and Having. Harper & Row, 1949. [5] Caillois R. Man, Play, and Games. University of Illinois Press, 1961. [6] Huizinga J. Homo Ludens: A Study of the Play-Element in Culture. Beacon Press, 1955. [7] Kelly K. The Inevitable: Understanding the 12 Technological Forces That Will Shape Our Future. Viking, 2016.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第54回です。 前回 → 第53回「Physical 100が映す時代の空気」