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原始への回帰

人間の体は、動くために設計されています。

1日に何十キロも歩き、獲物を追いかけ、木に登り、重いものを運ぶ。何百万年もの進化の中で、私たちの体はそうした環境に最適化されてきました。

ハーバード大学の進化生物学者ダニエル・リーバーマンは、ホモ・サピエンスの祖先が1日平均9〜15kmを移動していたと推計しています[1]。狩猟採集民の生活では、獲物を追う「持久狩猟(persistence hunting)」。動物が疲労で倒れるまで何時間も追い続ける。が行われていました。人間は地球上で最も優れた長距離走者の一つであり、体温調節のための発汗システムや、足底のアーチ構造、大臀筋の発達はすべて「走るため」に進化した形質です[2]。

デスクワークは、人体にとって「異常事態」です。

現代の平均的なオフィスワーカーは、1日に8〜10時間座っています。これは人類史の中で、ここ数十年に突然始まったことです。200万年以上かけて形成された身体の設計図と、まったく異なる使い方を強いている。

「ミスマッチ病」という視点

進化医学(Evolutionary Medicine)の視点で見ると、現代人の多くの健康問題は「ミスマッチ」から来ています[1]。

リーバーマンは、この概念を「ミスマッチ病(mismatch diseases)」と名づけました。進化の過程で適応した環境と、現代の生活環境の間に生じるギャップが、病気の温床になるという考え方です。

動くように設計された体を、動かさないで使っている。数万キロカロリーを消費するように作られた代謝システムに、余剰カロリーを流し込んでいる。日中に太陽の光を浴びるようにできた体内時計を、室内の人工照明で狂わせている。断続的な飢餓に適応したインスリン応答システムに、24時間休みなく糖質を投入している。

腰痛、肩こり、肥満、2型糖尿病、不眠、うつ病、骨粗鬆症。これらの多くは、「原始の環境」と「現代の生活」のミスマッチが生み出している可能性があります。

具体的な数字を見てみます。WHOによると、世界の成人の約14億人が運動不足の状態にあり、身体活動不足は世界の死因の第4位です[3]。年間約320万人が身体活動不足に起因する疾患で死亡していると推計されています。2型糖尿病の症例の27%、虚血性心疾患の30%、一部のがんの21〜25%が身体活動不足に関連しているとされます[3]。

これらの「現代病」の多くは、数百万年前の狩猟採集民にはほとんど存在しませんでした。現代でも伝統的な狩猟採集生活を続けるタンザニアのハッザ族を対象とした研究では、2型糖尿病、心血管疾患、高血圧の発症率が極めて低いことが報告されています[4]。彼らは1日平均約14,000歩を歩き、日常的に掘る・運ぶ・登るなどの身体活動を行っています。

ファンクショナルムーブメントという「身体の母語」

では、進化的に「正しい」動き方とは何でしょうか。

クロスフィットの創始者グレッグ・グラスマンは、こう言っています。

「人間が自然界で必要とする動きをトレーニングする」。

押す、引く、持ち上げる、走る、跳ぶ、しゃがむ。これらは「ファンクショナルムーブメント(機能的な動き)」と呼ばれます。ジムのマシンのように単一の筋肉を動かすのではなく、体全体を連動させて動く。

この考え方は、クロスフィットだけのものではありません。ファンクショナルトレーニングの思想は、理学療法やリハビリテーションの分野で長い歴史を持っています。1940年代にアメリカの理学療法士たちが、第二次世界大戦の負傷兵のリハビリテーションとして「日常動作に基づくトレーニング」を体系化したのがその始まりです[5]。

ヒューマンムーブメントの専門家アイドー・ポータルは、さらに根源的な問いを投げかけます。「人間の動きは、スポーツや競技に還元できるものではない。歩く、這う、登る、泳ぐ、ぶら下がる、転がる。これらすべてが人間の身体の『母語』だ」[6]。

現代のフィットネスが見失いがちなのは、この「動きの多様性」です。ランニングマシンで走るのは「走る」動きの一部を切り取っているに過ぎません。不整地を走り、障害物を跳び越え、崖を登るという「野生的な動き」こそが、人間の体が本来求めているものです。

フランス生まれの「パルクール」や、ブラジルの「カポエイラ」、そしてクロスフィットに見られる「ファンクショナルムーブメント」の流行は、本質的には同じ欲求。人間本来の動きを取り戻したい。から生まれています。

体が「目覚めていく」感覚

私がクロスフィットに惹かれた理由も、ここにあります。

クリーン、スナッチ、デッドリフト、スクワット、プルアップ、ロープクライム、ボックスジャンプ。これらの動きは、進化の観点から見れば「獲物を持ち上げる」「木に登る」「岩を跳び越える」という原始的な動作の再現です。

クロスフィットのWOD(Workout of the Day)は、高強度で多様な動きを組み合わせます。これは、予測不能な自然環境で多様な身体課題に対応してきた狩猟採集民の活動パターンに、驚くほど似ています。

最初のうちは、なぜこれほど多様な動きを練習するのか疑問でした。でも続けるうちに、体が「目覚めていく」感覚がありました。デスクワークで固まっていた股関節が動き出し、使ったことのない筋肉が反応し始める。体が「ああ、これが本来の使い方だ」と言っているようでした。

旧石器時代の処方箋

進化医学の研究者たちは、「旧石器時代の処方箋(Paleolithic prescription)」という概念を提唱しています[7]。現代人の健康問題を解決するには、進化的に適応した生活パターン。適度な身体活動、加工されていない食事、十分な睡眠、社会的つながり。を現代の文脈で再現すべきだという考え方です。

これは「原始人のように生きろ」という意味ではありません。現代の医療やテクノロジーの恩恵を受けながら、身体の「設計仕様」に沿った使い方をしようということです。

具体的には:

  • 1日最低30分の中〜高強度の身体活動(できれば多様な動き)
  • 長時間の連続した座位を避ける(30分ごとに立ち上がる)
  • 体重を支える動き(レジスタンストレーニング)を週2回以上
  • 不整地を歩く・走るなど、バランス能力を使う動き
  • 自然光の下での活動

これらは特別なことではありません。人間が数百万年間、当たり前にやっていたことを、意識的に生活に取り入れるだけです。

原始への回帰は、最先端の選択

皮肉なことに、テクノロジーが進むほど、「原始的な運動」の価値が上がります。

AIが頭の仕事を代替する時代に、人間が自分の体を使って物理的に動く。重力に逆らい、息を切らし、汗をかく。

マッドラン(障害物レース)の人気は年々高まり、スパルタンレースの参加者は世界で年間100万人を超えています。都市部では「MovNat(ムーブナット)」のような「自然な動き」を再学習するプログラムが広がっています[8]。ボルダリングジムは世界中で急増し、クロスフィットのアフィリエイトジムは世界に14,000以上存在します。

人々は本能的に、「原始的な動き」を求めています。それは懐古趣味ではなく、進化的に刻まれた身体の欲求です。

これは退化ではありません。進化的に正しい場所に戻ることです。テクノロジーが人間の脳の仕事を代替すればするほど、人間は身体を通じて「人間らしさ」を確認する必要が高まります。原始への回帰は、AI時代の最先端の選択なのです。

この章のポイント

  • 人間の体は数百万年かけて「動くため」に設計されてきた。デスクワークは進化的な異常事態
  • リーバーマンの言う「ミスマッチ病」が現代の慢性疾患の温床になっている
  • 押す・引く・運ぶ・登るといったファンクショナルムーブメントは身体の「母語」である
  • 原始への回帰は退化ではなく、AI時代における最先端の選択

参考文献 [1] Lieberman DE. The Story of the Human Body: Evolution, Health, and Disease. Pantheon. 2013. [2] Bramble DM, Lieberman DE. Endurance running and the evolution of Homo. Nature. 2004;432(7015):345-352. [3] World Health Organization. Global status report on physical activity 2022. WHO. 2022. [4] Pontzer H, et al. Hunter-gatherer energetics and human obesity. PLoS One. 2012;7(7):e40503. [5] Boyle M. Advances in Functional Training. On Target Publications. 2010. [6] Portal I. The Ido Portal Method. idoportal.com. [7] Eaton SB, et al. Stone agers in the fast lane: chronic degenerative diseases in evolutionary perspective. Am J Med. 1988;84(4):739-749. [8] Le Corre E. The Practice of Natural Movement. Victory Belt Publishing. 2019.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第58回です。 前回 → 第57回「テックエリートが身体に投資する理由」