メインコンテンツへスキップ
81 / 86|11分で読めます

ビジネスアスリートを5年で1%増やす

85回の連載の、最後の5回に入ります。終章では、「これからの話」をします。科学もデータもエビデンスも大事ですが、最後は「何をしたいのか」「どんな未来を見ているのか」を語らせてください。

まず、一つのビジョンから。

「たった1%」の意味。100万人の人生

日本のフィットネス参加率を、5年で4%から5%に引き上げたい。

たった1%。この数字を聞いて、「たったそれだけ?」と思うかもしれません。あるいは「それが何の意味があるの?」と。

でも、1%は約100万人です。

第25回で書いた通り、日本の人口約1億2,500万人の1%は約125万人。125万人が新たに運動習慣を持ったとき、何が起きるか。

笹川スポーツ財団のデータに基づけば、運動習慣者は一人あたり年間5〜7万円の医療費削減効果があります[1]。125万人が運動習慣を持てば、年間625〜875億円の医療費が削減される計算です。

しかし、数字以上に大きいのは、「社会のムード」が変わることです。

クリティカルマス。行動はある閾値で広がり出す

社会学に「クリティカルマス」という概念があります。ある行動が人口の一定割合を超えると、急速に広がり始める。いわば「転換点」です。

ペンシルベニア大学のDamon Centolaらの研究では、社会的な行動変容が起きるクリティカルマスは約25%だと推定されています[2]。25%の人が新しい行動を採用すると、残りの75%にも急速に広がる。

日本のフィットネス参加率4%は、25%からは程遠い数字です。しかし、運動習慣者(週1回以上)の割合で見れば、男性33%、女性25%と、すでにクリティカルマスに近い水準にある[3]。問題は「ジムやクラブに通う」という、より構造化された運動習慣の普及率が極端に低いことです。

つまり、「なんとなく動いている」人はそれなりにいる。でも、「戦略的に動いている」人は圧倒的に少ない。

「ビジネスアスリート」という概念

「ビジネスアスリート」という概念を、もっと広めたいと思っています。

ビジネスアスリートとは、仕事で成果を出すために、体を戦略的にコンディショニングする人のことです。プロアスリートと同じ真剣さで、動く・眠る・食べるを管理する。試合(プレゼン、商談、締め切り)に向けてコンディションを整え、リカバリーを計画に組み込む。

これは特別な人の話ではありません。すべてのビジネスパーソンが実践できることです。

第40回で「ビジネスアスリートという生き方」を書きましたが、その核心は「体は仕事の道具であり、資産である」という認識です。車のオイル交換を怠れば、やがてエンジンが壊れる。体も同じです。メンテナンスなしで酷使し続ければ、いつか壊れる。

アメリカでは、企業の従業員向けウェルネスプログラムへの投資額が年間80億ドルを超えています[4]。Googleのキャンパスにはジムがあり、Appleはフィットネスセンターを従業員に提供し、JPMorganは毎年「Corporate Challenge」というランニングイベントを世界中で開催しています。

日本でも変化の兆しはあります。健康経営優良法人の認定企業数は年々増加し、2024年には大規模法人部門で約2,000社が認定されました。企業が従業員の健康に投資するのは、福利厚生のためだけではなく、生産性とリテンション(人材定着)への投資だからです。

小さな連鎖。3次の隔たりまで届く波紋

1%を動かすために必要なのは、大きなムーブメントではありません。小さな連鎖です。

あなたが動き始める。友人を誘う。友人がまた誰かを誘う。

SNSで記録を共有する。ストーリーズでジムの写真を上げる。「最近始めたんだけど」と職場で話す。それを聞いた同僚が「自分もやってみようかな」と思う。

第69回で「友人を巻き込む。社会的伝染の力」を書きました。ハーバード大学のChristakis & Fowlerの研究では、友人が肥満になると自分が肥満になる確率が57%上がることが示されています[5]。逆に言えば、友人が運動を始めると、自分も運動を始める確率が上がる。影響は3次の隔たり(友人の友人の友人)まで及ぶことも報告されています。

つまり、あなた一人が動き始めることは、統計的に見ても、周囲に波紋を広げるのです。

見たい未来。4つの具体

具体的に、何が起きてほしいのか。

職場の朝に、5分間のストレッチが当たり前になる。 ラジオ体操の現代版です。座りっぱなしのデスクワークの前に、体を起動する習慣。

ランニングクラブが、飲み会と同じくらい普通になる。 すでにSNS発のランニングクラブは増えています。adidas Runners Tokyoのような企業主導のコミュニティもある。「今日、走りに行かない?」が「今日、飲みに行かない?」と同じくらい自然になったら、日本のフィットネス文化は変わります。

ジムの体験が、もっと低いハードルで試せるようになる。 初回無料、トライアル1週間、ビジター利用。入口を広げる仕組みがもっと増えてほしい。第66回で「週1回でいい」と書きました。最初のハードルは、限りなく低いほうがいい。

企業が、運動手当を導入する。 書籍購入手当があるなら、ジム利用手当があっていい。月5,000円でも10,000円でも。それが「会社は健康を大事にしている」というメッセージになり、採用にも定着にもプラスに働きます。

連鎖の起点になる

これは壮大な話ではありません。

私のジムにも、最初は「友達に連れてこられた」という人がたくさんいます。最初の動機は「なんとなく」でいい。やがて体が変わり、心が変わり、「来てよかった」に変わる。

フィットネス参加率4%を5%に。たった1%。でも、その1%は100万人の人生を変える可能性がある。そして、その100万人が周囲に影響を与え、次の1%を生む。

大きなムーブメントは、小さな一歩の連鎖で始まります。

この連載が、その連鎖の起点の一つになれたらいいと思っています。

この章のポイント

  • フィットネス参加率4%→5%のたった1%は、100万人の人生と年間625〜875億円の医療費削減を意味する
  • クリティカルマスは25%。行動がそこを超えると残り75%にも一気に広がる
  • ビジネスアスリート=体を「仕事の道具であり資産」と認識する人。健康経営は生産性への投資
  • 影響は3次の隔たりまで届く。あなた一人の一歩が、統計的に波紋を広げる

参考文献 [1] 笹川スポーツ財団. スポーツ白書2023. 2023. [2] Centola D, et al. Experimental evidence for tipping points in social convention. Science. 2018;360(6393):1116-1119. [3] 厚生労働省. 令和4年国民健康・栄養調査結果の概要. 2023. [4] Mattke S, et al. Workplace Wellness Programs Study. RAND Corporation. 2013. [5] Christakis NA, Fowler JH. The spread of obesity in a large social network over 32 years. N Engl J Med. 2007;357(4):370-379.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第81回です。 前回 → 第80回「運動をすすめる医師としてのスタンス」