「先生、もっと早く来ればよかった」。外来で、時々この言葉を聞きます。血糖値がかなり上がってから来る人。腰痛が慢性化してから来る人。不眠が何年も続いてから来る人。みんな、もっと早い段階で何かできたはずでした。この言葉を聞くたびに、ある種のもどかしさを感じます。「もっと早く来てほしかった」のはもちろんですが、それ以上に、「来なくて済むようにできたかもしれない」という思いがあるからです。
治療・早期発見・予防。日本の医療が偏っている場所
医療には、大きく分けて3つのフェーズがあります。
| フェーズ | 内容 | 担い手 |
|---|---|---|
| 治療 | 壊れたものを直す | 病院の主な仕事 |
| 早期発見 | 壊れかけを見つける | 健康診断 |
| 予防 | そもそも壊れないようにする | ほとんど個人任せ |
日本の医療は、1番目と2番目に圧倒的にリソースが集中しています。3番目の「予防」は、ほとんど個人任せです。
数字で見ると、その偏りは明確です。日本の年間医療費約46兆円のうち、予防・健康増進に使われている金額は全体の3%にも満たないとされています[1]。一方、アメリカのCDC(疾病予防管理センター)の推計では、慢性疾患の治療費のうち約75%は、予防可能な疾患に費やされています[2]。つまり、治療に使われているお金の大部分は、「それ以前」の段階で防げた可能性があるのです。
「運動しましょう」「バランスの良い食事を」「十分な睡眠を」。健診のあとに紙一枚で渡される一般的なアドバイス。それで変われる人が、どれだけいるでしょうか。
紙一枚では変われない。変化のステージモデル
行動変容の研究で知られるプロチャスカとディクレメンテの「変化のステージモデル」によれば、人間が行動を変えるには5つの段階があります[3]。「前熟考期(まだ変える気がない)」「熟考期(変えようかなと思い始めた)」「準備期(具体的に計画し始めた)」「実行期(行動を変え始めた)」「維持期(変えた行動を続けている)」。
健診後の紙一枚は、「前熟考期」にいる人に対して、いきなり「実行期」を求めるようなものです。これでは変われなくて当然です。変化には、段階に応じた適切な介入が必要なのです。
修理工場ではなく、設計段階の話
私がこの連載を書いているのは、この3番目。「それ以前にできること」を伝えたいからです。
壊れてから直すのではなく、壊れない体を作る。修理工場の話ではなく、設計段階の話です。そしてその設計の中心にあるのが、「動くこと」だと考えています。
この「設計段階」のアプローチは、海外ではすでに様々な形で実践されています。
デンマークのコペンハーゲン市は、都市設計そのものを「予防医療」として位置づけています。自転車専用道路の総延長は約400km。通勤者の約50%が自転車を利用しており、それによる医療費削減効果は年間数億ユーロと試算されています[4]。市民は「運動しよう」と意識する必要がない。日常の移動そのものが、運動になっている。
シンガポール政府は「Healthy 365」というアプリを通じて、国民の健康行動にインセンティブを与えるプログラムを展開しています[5]。歩数や運動量に応じてポイントが貯まり、商品券などと交換できる仕組みです。健康的な行動を「楽しい」と感じさせるナッジ(行動を誘導する仕掛け)のデザインが特徴的です。
日本でも、先進的な取り組みは存在します。たとえば、新潟県見附市は「健幸都市(スマートウエルネスシティ)」を標榜し、歩いて暮らせるまちづくりと運動プログラムの無料提供を組み合わせた施策を実施しています[6]。参加者の医療費が非参加者と比べて有意に低いという結果も出ています。
運動は予防医療の「入口」になる
動くことは、単に筋肉をつけるためだけのものではありません。前回書いた通り、睡眠の質が変わり、食事への意識が変わり、メンタルが安定します。体の「解像度」が上がることで、不調のサインに早く気づけるようになります。
つまり運動は、予防医療の「入口」になり得るのです。
この「入口」としての運動の価値は、科学的にも繰り返し確認されています。ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに掲載された研究では、週に150分の中程度の運動(早歩きなど)を行うだけで、全死亡リスクが約31%低下することが示されています[7]。150分。つまり1日あたり約20分です。これは特別なことではありません。通勤経路を少し変える、エレベーターの代わりに階段を使う、昼休みに10分歩く。それだけで到達できる数字です。
さらに注目すべきは、運動の効果が「量的に増加する」だけでなく、「閾値が低い」ということです。全く運動していない人が、少しでも動き始めることの効果が最も大きい。ランセットに掲載されたメタアナリシスでは、運動量をゼロから週に1時間増やすだけで、うつ病のリスクが12%低下したと報告されています[8]。
完璧を目指す必要はない。まず始めることに、最大の価値があるのです。
8,700時間以上をどう過ごすか
もちろん、予防だけでは足りない場面もあります。医療が必要な病気はたくさんあります。「運動していれば病院はいらない」などと言うつもりは、まったくありません。
遺伝的な要因で発症する疾患、事故や感染症、メンタルヘルスの危機。こうした場面では、専門的な医療の介入が不可欠です。運動は万能薬ではありません。
しかし、運動が「土台」を作ることは間違いありません。土台が強ければ、病気になった時の回復も早い。手術後のリハビリも進みやすい。薬の効きも良くなることがある。「プレハビリテーション(prehabilitation)」という概念がありますが、これは手術前にあえて体力を高めておくことで、術後の回復を促進するアプローチです[9]。予防と治療は、対立するものではなく、補い合うものなのです。
でも、病院に来る「前」の広大な時間。朝起きて、食事をして、働いて、眠るまでの日常。その中で、自分の体を少しでも強くしておくことはできるはずです。
1日は24時間あります。そのうち病院で過ごす時間は、通院している人でも年間で数時間程度です。残りの8,700時間以上をどう過ごすかが、健康の大部分を決めています。イギリスの公衆衛生医マイケル・マーモットは、健康を決定する要因(社会的決定要因)として、所得、教育、居住環境、社会的つながり、そして日常の生活習慣を挙げています[10]。医療はそのうちの一部に過ぎません。
医師が病院の外で語る意味が、ここにあると思っています。
診察室では、3分で伝えきれないことがある。だから、ここで書きます。あなたが病院に来る前に、「それ以前」にできることを、一つでも具体的に伝えたい。それが、この連載の根幹にある思いです。
この章のポイント
- 日本の医療は治療と早期発見にリソースが集中し、予防は個人任せ。予防予算は全体の3%未満
- 「変化のステージモデル」によれば、健診後の紙一枚は前熟考期の人に実行期を求めるようなもの
- 週150分の中程度の運動で全死亡リスクが約31%低下。完璧でなく、まず始めることに最大の価値がある
- 病院で過ごす時間は年間数時間。残り8,700時間以上をどう過ごすかが健康の大部分を決める
参考文献 [1] 厚生労働省. 国民医療費の概況. 2024. [2] CDC. Chronic Disease Prevention and Health Promotion. 2023. [3] Prochaska JO, DiClemente CC. Stages and processes of self-change of smoking. Journal of Consulting and Clinical Psychology. 1983;51(3):390-395. [4] City of Copenhagen. Copenhagen City of Cyclists: Bicycle Account. 2022. [5] Health Promotion Board, Singapore. Healthy 365 Annual Report. 2023. [6] 筑波大学久野研究室. スマートウエルネスシティ実証事業報告書. 2022. [7] Arem H, et al. Leisure time physical activity and mortality: a detailed pooled analysis. JAMA Internal Medicine. 2015;175(6):959-967. [8] Harvey SB, et al. Exercise and the Prevention of Depression: Results of the HUNT Cohort Study. American Journal of Psychiatry. 2018;175(1):28-36. [9] Silver JK, Baima J. Cancer prehabilitation: an opportunity to decrease treatment-related morbidity, increase cancer treatment options, and improve physical and psychological health outcomes. American Journal of Physical Medicine & Rehabilitation. 2013;92(8):715-727. [10] Marmot M. The Health Gap: The Challenge of an Unequal World. Bloomsbury. 2015.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第6回です。 前回 → 第5回「健康な人が増えると困る構造」