あなたは自分のことを、どれくらい知っていますか? 好きな食べ物、得意なこと、嫌いな上司のタイプ。そういうことではありません。自分の体が何時間眠ると調子がいいのか。どんな食事をした翌朝が軽いのか。どのくらい動くと気分が上がるのか。私はほとんど知りませんでした。
「汝自身を知れ」。2,500年前からの問い
古代ギリシャのデルフォイ神殿には、「汝自身を知れ(グノーティ・セアウトン)」という言葉が刻まれていたと言います。ソクラテスはこの言葉を哲学の出発点としました。2,500年前から人類が取り組んできた問いが、「自分を知る」ということです。
しかし現代を生きる私たちは、この問いにどれだけ真剣に向き合えているでしょうか。
組織心理学者のターシャ・ユーリックは、著書Insightの中で興味深いデータを紹介しています[1]。調査対象者の95%が「自分は自己認識ができている」と答えたのに対し、実際に高い自己認識を持っていたのはわずか10〜15%だったというのです。私たちは「自分のことは自分がいちばんわかっている」と思い込んでいますが、実際にはその思い込みこそが、自己認識の最大の障壁になっている。
私自身も、まさにそうでした。
外にしか向いていなかった目
医師として働き始めてからも、自分の目は外にしか向いていませんでした。
他人の評価。論文の数。SNSのいいね。仕事の業績。外の世界に自分の価値を求め続けて、自分のことを見ることはほとんどしていなかった。周囲の人と比べては焦り、比べては安心し、また比べる。その繰り返しでした。
この「社会的比較」の問題は、SNS時代に加速しています。ペンシルベニア大学の研究では、SNSの使用時間を1日30分以内に制限したグループは、制限しなかったグループに比べて、孤独感とうつ症状が有意に減少したことが報告されています[2]。私たちは、他人のハイライトリールと自分の日常を比較し続けることで、知らず知らずのうちに自己認識を歪めているのです。
心理学者のレオン・フェスティンガーが1954年に提唱した「社会的比較理論」によれば、人間には自分の能力や意見を他者と比較して評価しようとする根本的な欲求があります[3]。この欲求自体は自然なものですが、比較の対象がSNS上の「見栄え」になると、自分の内面と向き合う機会が失われていきます。
比べるのは、昨日の自分だけ
ハッと気づいたのは、クロスフィットを始めてしばらく経った頃です。
ジムでは、他人との比較にほとんど意味がありません。体格も、年齢も、経験も違う。比べるのは昨日の自分だけ。先週より1kg重いバーベルが挙がった。先月より10秒速くなった。それだけが進歩の証拠でした。
これは、心理学でいう「熟達目標志向(mastery goal orientation)」に近い考え方です[4]。他者との競争に勝つこと(成績目標)ではなく、自分自身の成長や技術の向上を目指す姿勢。スタンフォード大学のキャロル・ドゥエック教授の研究では、この熟達志向を持つ人のほうが、困難に直面しても粘り強く取り組み、学習の質が高く、内発的動機づけが維持されやすいことが示されています[5]。
その感覚が、ジムの外にも染み出してきました。仕事の場面でも、「同期と比べて自分はどうか」ではなく、「昨日の自分と比べてどうか」と考えるようになった。これは小さな変化に思えるかもしれませんが、日常の幸福度に与える影響は大きかったのです。
体の解像度は、意外と低かった
「人生とは、自分のことを知る旅である。」この言葉が、自分の中で輪郭を持ち始めたのはその頃です。
外を見ていた目が、初めて内側に向きました。自分の体で生まれて、自分の体以外になれない。なのに、この体のことをほとんど知らなかった。何時間寝ればベストなのか。どの食材を食べると胃が重くなるのか。どんな運動をすると翌日の頭が冴えるのか。全部、気分で、適当にやっていました。
睡眠の研究で知られるマシュー・ウォーカー教授は、著書Why We Sleepの中で、最適な睡眠時間には個人差があり、それを正確に把握している人は少ないと指摘しています[6]。一般的に7〜9時間が推奨されますが、自分にとっての最適解は、実際に試して体の反応を観察しなければわかりません。食事も同様です。地中海食がいいのか、低糖質がいいのか、断食が合うのか。正解は人によって異なります。
問題は、「正解が個人によって異なる」のに、多くの人が自分の体に尋ねることなく、一般論やトレンドに流されているということです。
インテロセプション。体の声を聞く科学
動き始めてから、少しずつ変わりました。
体を動かすと、体のことが気になり始めます。「今日はよく眠れたな」「昨日の夕食が重かったかもしれない」「運動した日は午後の集中力が違う」。こうした小さな気づきが積み重なって、自分の体の「解像度」が上がっていきます。
これは、神経科学でいう「インテロセプション(内受容感覚)」の向上と密接に関係しています[7]。インテロセプションとは、心拍、呼吸、空腹、疲労など、体の内部状態を感知する能力のことです。ロンドン大学のサラ・ガーフィンケルらの研究によれば、インテロセプションの精度が高い人ほど、感情の認識と調整が上手く、意思決定の質も高い傾向があります[8]。
つまり、「体の声を聞く」ことは、単なる比喩ではなく、実際に脳と体の間の情報伝達の精度を高める行為なのです。そして運動は、このインテロセプションを鍛える最も効果的な方法の一つとされています。
興味深いことに、この「自分を知る」プロセスは、体だけにとどまりません。フィンランドのユヴァスキュラ大学の研究では、運動習慣のある人は自己効力感(self-efficacy)が高く、それが人生全般における意思決定の質向上にもつながっていることが示されています[9]。体を通じて自分を知ることが、心理的な自己理解にも波及するのです。
自分を知るということは、大げさなことではありません。毎日の小さな対話の積み重ねです。
マインドフルネスの研究で知られるジョン・カバットジンは、「気づき(awareness)は、変化の最初のステップである」と述べています[10]。体を動かすことは、この「気づき」を得るための、最も直接的で身体的な方法なのかもしれません。
あなたは最近、自分の体と対話していますか?
明日は「体の解像度」の話を、もう少し掘り下げます。
この章のポイント
- 自己認識ができていると答えた95%のうち、実際にできているのは10〜15%にすぎない
- ジムでは「比べるのは昨日の自分だけ」。熟達目標志向は内発的動機づけを維持しやすい
- 食事・睡眠・運動の正解は個人差が大きい。一般論ではなく自分の体に尋ねる必要がある
- インテロセプション(内受容感覚)を鍛える最も効果的な方法の一つが、運動である
参考文献 [1] Eurich T. Insight: The Surprising Truth About How Others See Us, How We See Ourselves, and Why the Answers Matter More Than We Think. Currency. 2017. [2] Hunt MG, et al. No More FOMO: Limiting Social Media Decreases Loneliness and Depression. Journal of Social and Clinical Psychology. 2018;37(10):751-768. [3] Festinger L. A Theory of Social Comparison Processes. Human Relations. 1954;7(2):117-140. [4] Dweck CS. Mindset: The New Psychology of Success. Random House. 2006. [5] Dweck CS, Leggett EL. A Social-Cognitive Approach to Motivation and Personality. Psychological Review. 1988;95(2):256-273. [6] Walker M. Why We Sleep: Unlocking the Power of Sleep and Dreams. Scribner. 2017. [7] Craig AD. How do you feel? Interoception: the sense of the physiological condition of the body. Nature Reviews Neuroscience. 2002;3(8):655-666. [8] Garfinkel SN, et al. Knowing your own heart: distinguishing interoceptive accuracy from interoceptive awareness. Biological Psychology. 2015;104:65-74. [9] Kekäläinen T, et al. The effect of exercise on self-efficacy and well-being in older adults. Ageing & Society. 2021;41(6):1361-1379. [10] Kabat-Zinn J. Full Catastrophe Living: Using the Wisdom of Your Body and Mind to Face Stress, Pain, and Illness. Bantam Books. 2013.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第2回です。 前回 → 第1回「なぜ動く人は、幸せそうなのか」