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健康な人が増えると困る構造

生活習慣病にかかる年間医療費は、約15兆円です[1]。この数字を聞いて、「大きいな」と思うでしょうか。それとも「まあ、しょうがない」と思うでしょうか。私が気になるのは、この15兆円の「構造」です。

46兆円のうち、3分の1が生活習慣病

日本の国民医療費の総額は約46兆円(2022年度)。そのうち生活習慣病が約3分の1を占めています[1]。高血圧、糖尿病、脂質異常症、心疾患、脳血管疾患。これらの多くは、生活習慣の改善によって予防・改善できる可能性があるものです。にもかかわらず、医療費は年々増加し続けています。

なぜでしょうか。もちろん高齢化という人口構造の問題はあります。しかし、それだけでは説明できない「構造的な問題」があると、私は感じています。

健康な人が増えると、困る構造

病院の収益構造を、シンプルに書きます。

患者さんがたくさんいて、たくさん検査をして、たくさん薬を使ってくれたほうが、病院の収益は上がります。これは批判ではありません。現行の診療報酬制度のもとでは、そういう仕組みになっているという事実です。

日本の診療報酬制度は「出来高払い」が基本です。検査をすればするほど、処方を出せば出すほど、報酬が発生します。予防のための生活指導を30分かけて丁寧に行っても、その報酬は薬を一つ処方するよりも少ないことが珍しくありません。

つまり、極端に言えば。健康な人が増えると、困る構造になっています。

医師としてこの中にいると、奇妙な感覚に襲われることがあります。自分は患者さんの健康を願っている。でも、組織としては患者さんが来てくれないと成り立たない。この矛盾を、多くの医療者が無意識のうちに飲み込んでいます。

この矛盾は日本だけの問題ではありません。アメリカの医療経済学者アトゥール・ガワンデは、著書Being Mortalの中で、アメリカの医療システムも「治療」に最適化されており、「予防」や「生活の質の向上」に対するインセンティブが著しく弱いと指摘しています[2]。先進国の多くが、同じ構造的ジレンマを抱えているのです。

医療費だけでは終わらない経済的損失

この構造が生み出す経済的な影響は、医療費だけにとどまりません。

メンタルヘルスの経済損失は、年間約7兆円と推計されています[3]。これは医療費だけでなく、労働生産性の低下(プレゼンティーイズム:出勤していても体調不良で本来の力を発揮できない状態)や、休職・離職による損失も含んでいます。

腰痛による生産性損失は、1,000人あたり年間6,480万円[4]。デロイトの推計では、日本企業における従業員一人あたりの健康関連損失コストは年間約56万円に上るとされています[5]。

世界保健機関(WHO)は、メンタルヘルスへの投資のリターンについて興味深い数字を示しています。うつ病と不安障害の治療に1ドル投資するごとに、生産性向上を通じて4ドルのリターンがあるというのです[6]。そして、運動はうつ病や不安障害の予防・改善において、最もコストパフォーマンスの高い介入の一つです。

これらの多くは、予防できる可能性があります。

運動習慣のある人は、ない人に比べて年間5〜7万円ほど医療費が少ないというデータがあります[7]。仮に日本人の10%が新たに運動習慣を持てば、年間3,000〜4,200億円の医療費削減が見込めるという試算もあります[7]。

予防のパラドクス。「何も起きなかった」を誰が評価するか

でも、予防にお金が回りにくい。なぜなら、予防は「何も起きなかった」ことが成果だからです。病気にならなかった人は病院に来ない。来ない人にお金は動かない。

この「予防のパラドクス」は、公衆衛生学者のジェフリー・ローズが1980年代に指摘した古典的な問題です[8]。個人レベルでは予防の効果が見えにくい。しかし集団レベルでは、その効果は莫大になる。問題は、「莫大な効果」を誰が評価し、誰がお金を出すのか、というインセンティブの設計にあります。

海外で進む構造変革。バリューベースケアと社会的処方

海外では、この構造を変えようとする動きが広がっています。

アメリカでは「バリューベースケア(value-based care)」と呼ばれる、治療の「量」ではなく「成果」に報酬を支払う仕組みへの移行が進んでいます[9]。患者を健康に保つことが病院の収益につながる。この発想の転換は、予防医療への投資を促す可能性を秘めています。

イギリスのNHSでは、前回触れた「ソーシャル・プリスクライビング」が拡大しています。2023年時点で、全国に約1,000人以上のリンクワーカーが配置され、年間100万件以上の紹介が行われています[10]。運動、園芸、料理教室、ボランティア活動など。薬ではない「処方」が、実際に医療費の削減と患者の生活の質向上に寄与しているというエビデンスが蓄積されつつあります。

北欧諸国、特にフィンランドでは、国民の運動参加率が約70%を超えています。フィンランド政府は2030年までに「世界で最も身体的にアクティブな国」になるという目標を掲げ、学校教育から都市設計に至るまで、運動を促進する政策を包括的に実施しています[11]。

日本でも、経済産業省が推進する「健康経営」の枠組みの中で、企業が従業員の健康投資に取り組む動きが広がっています。「健康経営銘柄」に選定された企業の株価パフォーマンスがTOPIXを上回る傾向があるというデータもあり[12]、「健康な従業員は企業の資産である」という認識が少しずつ浸透しつつあります。

一人が動くことが、構造を変える

この構造を変えるのは簡単ではありません。

でも、少なくとも「知っておく」ことには意味があると思っています。自分の体を自分で守ることが、結果的に社会全体のコストを下げる。その事実を知った上で、動くかどうかを決めてほしいのです。

一人が動き始めることは、小さな変化に見えるかもしれません。でも、その小さな変化が積み重なれば、医療費の構造そのものが変わる可能性がある。大げさな話ではなく、数字がそれを示しています。

病院の中からでは届かない声がある。だから、病院の外で書いています。

この章のポイント

  • 日本の国民医療費46兆円のうち、約3分の1が生活習慣病。出来高払い制度は「健康な人が増えると困る構造」を生む
  • メンタルヘルスの経済損失は年間約7兆円。WHOは治療1ドルに対し4ドルのリターンを示す
  • 「予防のパラドクス」。予防は「何も起きなかった」ことが成果なので、お金が回りにくい
  • バリューベースケア・社会的処方・健康経営など、構造を変える動きが国際的に進んでいる

参考文献 [1] 厚生労働省. 国民医療費の概況. 2024. [2] Gawande A. Being Mortal: Medicine and What Matters in the End. Metropolitan Books. 2014. [3] 慶應義塾大学. メンタルヘルスの経済的損失に関する研究. 2020. [4] 日本整形外科学会. 腰痛の疫学と経済的影響. 2023. [5] Deloitte. 健康経営の推進による企業業績への影響分析. 2022. [6] World Health Organization. Mental health in the workplace. 2019. [7] 笹川スポーツ財団. スポーツライフ・データ/運動習慣と医療費に関する調査. 2023. [8] Rose G. Sick individuals and sick populations. International Journal of Epidemiology. 1985;14(1):32-38. [9] Porter ME, Lee TH. The Strategy That Will Fix Health Care. Harvard Business Review. 2013. [10] NHS England. Social Prescribing Annual Report. 2023. [11] Finnish Ministry of Education and Culture. Physical Activity Strategy 2030. [12] 経済産業省. 健康経営銘柄レポート. 2024.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第5回です。 前回 → 第4回「医師としての違和感。病院は受け身だ」