SNSを開けば、比較が始まります。あの人の年収。あの人のキャリア。あの人の生活。自分より上に見える人がいくらでもいる。そして、少しずつ自分が小さく感じる。でも、バーベルの前では、そのすべてが消えます。
50kgは、誰に対しても50kg
バーベルは、あなたの肩書きを知りません。フォロワー数も、年収も、学歴も関係ない。
50kgのバーベルは、誰に対しても50kgです。上がるか、上がらないか。それだけです。
これが、運動が持つ「純粋さ」です。
現代社会では、ほとんどの評価が「他者の判断」に依存しています。仕事の評価は上司が決める。SNSの反応は他人が決める。年収も、社会的な「価値」の尺度で測られる。自分ではコントロールできない変数が、自分の自己評価を左右する。
しかし、バーベルのフィードバックは完全に客観的です。政治もなければ、忖度もない。重力は平等で、例外を認めません。この「嘘のなさ」が、現代社会で失われがちな「確かな手応え」を提供してくれるのです。
社会的比較理論。なぜ人は比べてしまうのか
心理学には「社会的比較理論」があります[1]。1954年に心理学者レオン・フェスティンガーが提唱したこの理論は、人間には自分の能力や意見を他者と比較することで自己評価を形成する基本的な欲求がある、と説明しています。
フェスティンガーは、人が比較する方向には二種類あることを示しました。「上方比較」。自分より優れた他者との比較。と、「下方比較」。自分より劣った他者との比較。です。
上方比較は、時にモチベーションの源泉になります。「あの人のようになりたい」という憧れが行動を促す。しかし、多くの場合、上方比較は自己評価を低下させ、不安や抑うつを引き起こします[2]。
問題は、SNS時代にこの上方比較が極端に加速していることです。
かつて、人が日常的に比較する対象は、せいぜい数十人。同僚、近所の人、同級生。でした。しかし今、私たちはスマートフォンを開くたびに、世界中の「最も輝いている瞬間」を切り取った投稿を浴びせられます。
ペンシルベニア大学のメリッサ・ハントの研究(2018年)は、SNSの使用時間を1日30分に制限した被験者グループで、孤独感と抑うつが有意に減少したことを報告しています[3]。比較の機会を減らすだけで、メンタルヘルスが改善されるのです。
バーベルが「比較」を書き換える
運動は、この比較から降りる方法の一つです。
バーベルを持ち上げる時、比較対象は「昨日の自分」だけです。先週より1kg重いものが上がった。先月よりタイムが縮んだ。他人ではなく、自分の成長だけが指標になる。
心理学者のキャロル・ドゥエックは、「固定マインドセット」と「成長マインドセット」の概念を提唱しています[4]。固定マインドセットの人は、能力は生まれつき決まっていると考え、他者との比較で自分の価値を測ります。成長マインドセットの人は、能力は努力によって伸びると考え、過去の自分との比較で成長を実感します。
バーベルの前に立つことは、自動的に「成長マインドセット」を促します。なぜなら、過去の記録という客観的な指標があるからです。先週は50kgが上がった。今週は52.5kgが上がった。この2.5kgの進歩は、誰かと比べる必要がありません。自分だけの成長です。
スポーツ心理学では、「タスク志向」(自分のスキル向上に焦点を当てる)と「エゴ志向」(他者との比較に焦点を当てる)という二つの目標志向性が研究されています[5]。タスク志向が高い人は、内発的動機づけが強く、パフォーマンスの向上だけでなく、ウェルビーイングも高いことがわかっています。運動。特に記録を重視するウエイトトレーニング。は、このタスク志向を自然に育てる環境です。
クロスフィットの「ホワイトボード」
クロスフィットでは、毎回のワークアウトを記録します。
今日のスクワットの重量。今日のタイム。これを先週の記録と比べる。他の人のスコアはホワイトボードに書いてありますが、実際に気になるのは自分の数字だけです。
「外ばかり見ていた」と書いたのは、連載の第2回でした。バーベルの前に立つと、嫌でも「内」を見ることになります。
自分の体、自分の限界、自分の成長。他人との比較ではなく、自分との対話。
クロスフィットの面白いところは、「コミュニティ」と「個人の成長」が共存していることです。ホワイトボードには全員のスコアが書かれますが、そこで生まれるのは「競争」ではなく「応援」です。最後にフィニッシュする人に最大の声援が送られる。なぜなら、その人が「自分の限界」と最も長く戦っているからです。
これは、SNSの「いいね」とは根本的に異なるフィードバックシステムです。SNSの「いいね」は数字で序列を作り、比較を促進します。一方、クロスフィットの文化は「あなたの全力が、あなたの最高」という前提の上に成り立っています。
運動がメンタルヘルスを守るメカニズム
運動が「比較からの解放」をもたらすメカニズムは、心理学的な側面だけではありません。神経科学的にも説明できます。
高強度の運動中、前頭前野の活動が一時的に抑制される現象が起きます。これを「一過性前頭葉機能低下(transient hypofrontality)」と呼びます[6]。前頭前野は、計画、比較、自己評価といった高次認知機能を担う部位です。この部位の活動が抑制されることで、文字通り「考えすぎ」が止まる。
つまり、きつい運動をしている最中は、脳が物理的に「比較」できなくなるのです。
加えて、運動後にはエンドルフィン、セロトニン、ドーパミンといった神経伝達物質が分泌されます[7]。これらは気分を改善し、自己肯定感を高める効果があります。バーベルを上げた後の爽快感は、「気のせい」ではなく、神経化学的な現象です。
「自分軸」を取り戻す
他人との比較をやめる最良の方法は、自分の体と向き合うことかもしれません。
哲学者ハンナ・アーレントは、人間の活動を「労働」「仕事」「活動」の三つに分けました[8]。「活動」とは、他者との関係の中で自分を表現する行為です。SNSでの自己表現は「活動」ですが、そこには常に他者の評価がつきまといます。
一方、バーベルの前に立つ行為は、他者の評価を必要としません。自分の体と、重力と、今この瞬間だけがある。これは「活動」というより「瞑想」に近い。
自分軸を失いかけた時、バーベルは静かにそこにあります。批判もせず、おだてもせず、ただ正直なフィードバックを返してくれる。
その誠実さが、人を立ち直らせることがあるのです。
この章のポイント
- 50kgは誰に対しても50kg。バーベルのフィードバックは肩書きや忖度を一切受け付けない
- SNS時代に暴走する「上方比較」を、ウエイトトレーニングは「過去の自分との比較」へと書き換える
- 高強度運動は前頭前野を一時的に抑制し、神経科学的に「比較する脳」を物理的に止める
- バーベルの誠実さは、自分軸を失いかけた人を静かに立ち直らせる装置として働く
参考文献 [1] Festinger L. A theory of social comparison processes. Human Relations. 1954;7(2):117-140. [2] Verduyn P, et al. Passive Facebook usage undermines affective well-being. J Exp Psychol Gen. 2015;144(2):480-488. [3] Hunt MG, et al. No more FOMO: Limiting social media decreases loneliness and depression. J Soc Clin Psychol. 2018;37(10):751-768. [4] Dweck CS. Mindset: The New Psychology of Success. Random House, 2006. [5] Nicholls JG. Achievement motivation: Conceptions of ability, subjective experience, task choice, and performance. Psychol Rev. 1984;91(3):328-346. [6] Dietrich A. Transient hypofrontality as a mechanism for the psychological effects of exercise. Psychiatry Res. 2006;145(1):79-83. [7] Dishman RK, O'Connor PJ. Lessons in exercise neurobiology: The case of endorphins. Ment Health Phys Act. 2009;2(1):4-9. [8] Arendt H. The Human Condition. University of Chicago Press, 1958.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第46回です。 前回 → 第45回「フィットネス参加率3%の国に何が必要か」