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頭の仕事が奪われる時代

ChatGPTが世に出てから、世界は変わりました。

2022年11月30日。OpenAIがChatGPTを公開した日を、多くの人が覚えていると思います。わずか2か月でユーザー数は1億人を突破し、TikTokやInstagramを上回る史上最速の普及スピードを記録しました[1]。あの日を境に、「頭の仕事」の意味が根本から揺らぎ始めています。

文章を書く。データを分析する。コードを書く。翻訳する。法律文書を読み解く。医療画像を読影する。これらの「頭の仕事」。いわゆるナレッジワーク。が、AIによって自動化されつつあります。

ゴールドマン・サックスの2023年レポートは、生成AIによって世界で3億人分のフルタイム雇用相当が影響を受ける可能性があると試算しました[2]。マッキンゼー・グローバル・インスティテュートは、2030年までに現在の業務の約30%が自動化される可能性を指摘しています[3]。世界経済フォーラム(WEF)の「The Future of Jobs Report 2025」では、2027年までに9,200万の雇用が消失する一方で、6,900万の新規雇用が生まれると予測されています[4]。

ここで注目すべきは、今回の自動化の波が「肉体労働」ではなく「知的労働」を直撃しているという点です。

知的労働を直撃する自動化の波

これまでの産業革命では、自動化されるのは主に肉体労働でした。

18世紀の蒸気機関は紡績工を置き換え、20世紀の工場ロボットは組立ラインの作業者を置き換えました。「頭を使う仕事」は安全地帯だと思われていました。だからこそ、親は子どもに「勉強しなさい」と言い、社会は高等教育に投資してきました。

ところが、生成AIの出現で状況は逆転しました。

プログラマー、弁護士、会計士、放射線科医、翻訳者、コピーライター。かつて「知識集約型」と呼ばれた職種が、最もAIの影響を受けやすいことが明らかになっています。OpenAIとペンシルベニア大学の共同研究では、米国の労働者の約80%が、業務の少なくとも10%に大規模言語モデル(LLM)の影響を受け、約19%の労働者はタスクの50%以上が影響を受けると推計されています[5]。

では、AI時代に人間に残るものは何か。

残るもの。身体という代替不可能性

一つは「身体」です。

AIはあなたの代わりに考えることはできます。でも、あなたの代わりに走ることはできません。あなたの代わりにバーベルを持ち上げることも、あなたの代わりに汗をかくこともできません。

「動く」という行為は、完全に代替不可能です。

哲学者のマシュー・クロフォードは『Shop Class as Soulcraft』の中で、身体を使う仕事がもつ不可還元的な価値を論じています[6]。手仕事には、その場の状況に応じて瞬時に判断し、物理的に適応する「身体知」が必要です。これはプログラムに還元できません。

神経科学でも、「身体化された認知(embodied cognition)」という概念が注目されています[7]。人間の思考は脳だけで完結するのではなく、身体を通じて環境と相互作用する中で成り立っている。つまり、「考える」という行為そのものが身体に根ざしているのです。

AIは膨大なデータからパターンを抽出できますが、重力を感じること、痛みから学ぶこと、呼吸が苦しくなる限界を知ることはできません。身体的な経験は、デジタルに変換できない「非可逆的」な情報です。

シリコンバレーが身体に向かう理由

面白いことに、テクノロジーの最先端にいる人ほど、このことに気づいています。

シリコンバレーのCEOたちの間で、身体への投資が急増しています。マーク・ザッカーバーグはMMA(総合格闘技)を始め、柔術の大会にまで出場しました。ブライアン・ジョンソンは「Blueprint」と名付けたプログラムで、生物学的年齢の逆行に年間200万ドル以上を投じています。ジャック・ドーシー(Twitter共同創業者)は瞑想とサウナを日課にし、ティム・クック(Apple CEO)は毎朝4時にジムに向かいます。

最先端のテクノロジーを作っている人たちが、なぜ「原始的な運動」に向かうのか。

それは、彼らが「頭の仕事」の価値がAIに侵食されることを、誰よりも理解しているからではないでしょうか。テクノロジーの未来を日々目撃している人たちが、自分の「人間としての価値」を身体に見出している。この事実は、非常に示唆的です。

希少性が高まる「本物の経験」

もう一つ、見逃せない視点があります。

AIが知的労働を代替すればするほど、「身体を動かして得られる経験」の希少性が上がるということです。

経済学の基本原理として、希少なものの価値は上がります。AIが文章を書き、データを分析し、コードを生成する時代において、「自分の足で100km走った」「デッドリフトで200kgを引いた」「3年かけて逆立ち歩きができるようになった」という身体的達成は、AIには絶対に真似できない「本物の経験」として、その価値を増していきます。

私自身、医師としてAIの医療応用を間近で見ていて、その能力に驚くことが増えました。画像診断の精度は年々向上し、論文の要約や鑑別診断のリストアップにおいてはすでに実用レベルに達しています。「医師の知識」そのものの独占的価値は、確実に低下しつつあります。

だからこそ、私はクロスフィットを続けているのかもしれません。バーベルを握り、WOD(Workout of the Day)で限界まで追い込む。その時間だけは、AIとは無関係の「純粋な身体の時間」です。

最後に残るのは、身体の経験

AI時代に最後に残るのは、身体の経験です。

走った後の爽快感。重いものを持ち上げた達成感。汗をかいた後のシャワー。仲間と一緒にきついワークアウトを乗り越えた連帯感。これらはAIには体験できません。

社会学者のハルトムート・ローザは「加速する社会」において、人々が「共鳴(Resonanz)」。世界との生き生きとした関係。を失いつつあると警告しています[8]。スクリーンの向こうの情報処理は加速する一方、自分の身体を通じた世界との接触は減り続けている。

身体を動かすことは、この「共鳴」を取り戻す行為です。地面を蹴る感触、空気を吸い込む感覚、心臓が限界で打つリズム。これらはすべて、デジタルには還元できない「世界との直接的な接触」です。

身体を持つことが、人間であることの最後の砦になる。

そして、その砦は「使わなければ失われる」ものです。筋肉は動かさなければ萎縮し、心肺機能は使わなければ衰えます。AI時代だからこそ、身体を動かし続けることが、人間としての存在意義を守る行為になるのではないでしょうか。

この章のポイント

  • 生成AIの波は、これまでとは逆に「知的労働」を直撃している
  • 身体化された認知の研究が示すように、思考は身体に根ざしており、デジタルに還元できない
  • ザッカーバーグ・ジョンソン・クック。テクノロジーの最先端にいる人ほど身体に投資している
  • 「動く」という行為だけはAIに代替されない。身体を持つことが人間の最後の砦になる

参考文献 [1] Hu K. ChatGPT sets record for fastest-growing user base. Reuters. 2023. [2] Hatzius J, et al. The Potentially Large Effects of Artificial Intelligence on Economic Growth. Goldman Sachs Economics Research. 2023. [3] McKinsey Global Institute. Generative AI and the future of work in America. 2023. [4] World Economic Forum. The Future of Jobs Report 2025. 2025. [5] Eloundou T, et al. GPTs are GPTs: An early look at the labor market impact potential of large language models. arXiv. 2023. [6] Crawford MB. Shop Class as Soulcraft: An Inquiry into the Value of Work. Penguin Press. 2009. [7] Shapiro L. Embodied Cognition. Routledge. 2011. [8] Rosa H. Resonance: A Sociology of Our Relationship to the World. Polity. 2019.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第56回です。 前回 → 第55回「自分の体で生まれて、自分の体以外になれない」