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運動が脳に効く——記憶力と集中力

運動は「体のため」にするもの。多くの人がそう思っています。

でも、最新の科学が示しているのは、少し違う景色です。運動は「脳のため」にもなる。いや、むしろ脳にこそ効くのかもしれません。


25万人のデータが示す「脳への効果」

2025年に発表されたメタ分析があります。2,724件のランダム化比較試験、25万人以上のデータを統合した、圧倒的な規模の研究です[1]。

結果はシンプルでした。運動は認知機能を改善する(効果量 SMD=0.42)。記憶力も向上する(SMD=0.26)。実行機能。つまり計画を立てて実行する力。も上がる(SMD=0.24)。

しかも、1〜3ヶ月の短期間でも効果が出る。ハードなトレーニングでなくても、ウォーキングやヨガで十分な効果があるとされています。

この「SMD=0.42」という数字がどれくらいの大きさか、少し補足しておきます。効果量の世界では、0.2が「小さい効果」、0.5が「中程度の効果」、0.8が「大きい効果」とされます。つまり、運動の認知機能への効果は「小と中の間」。これは、多くの認知トレーニングアプリの効果量を上回る数字です[1]。

脳トレアプリに月額課金するより、30分歩いたほうが脳は鍛えられるかもしれない。というのは、科学的に根拠のある話なのです。


筋肉から脳へのメッセージ。マイオカインという発見

なぜ運動が脳に効くのか。そのメカニズムも少しずつわかってきています。

筋肉を動かすと、「マイオカイン」と呼ばれる物質が分泌されます。その中でも注目されているのが「イリシン」と「カテプシンB」。これらが血液を通じて脳に届き、海馬でBDNF(脳由来神経栄養因子)の分泌を促します[2]。

BDNFは、脳の「肥料」のようなものです。神経細胞の成長を促し、シナプスの可塑性を高める。つまり、学びやすく、覚えやすく、判断しやすい脳を作ってくれます。

筋肉が脳に「もっと成長しろ」とメッセージを送っている。そんなイメージです。

この「筋肉-脳クロストーク」は、近年の神経科学で最もホットな研究分野の一つです。2023年にNature誌に発表された研究では、運動によって筋肉から放出されるイリシンが、アルツハイマー病のモデルマウスでアミロイドベータ(認知症の原因とされるたんぱく質)の蓄積を減少させたと報告されています[3]。

つまり、運動は「今の脳」を活性化するだけでなく、「将来の脳」を守る可能性もある。


海馬が大きくなる。ピッツバーグ大学の画期的な研究

運動が脳を変えることを、最も鮮やかに示した研究があります。

2011年、ピッツバーグ大学のエリクソンらが発表した研究です[4]。120人の高齢者を2グループに分け、一方には週3回、40分のウォーキングを1年間続けてもらいました。もう一方にはストレッチのみ。

1年後、MRIで脳を撮影したところ、ウォーキング群の海馬の体積が約2%増加していました。一方、ストレッチ群の海馬は約1.4%縮小していました。

海馬は記憶の中枢です。加齢とともに毎年約1〜2%ずつ縮小し、それが「物忘れ」の原因になります。ウォーキングという穏やかな運動を1年続けるだけで、この加齢による縮小を逆転させたのです。

この研究は、運動が脳の「構造」そのものを変えることを示した点で画期的でした。気分が良くなるとか、一時的に集中力が上がるという話ではなく、脳の物理的なサイズが変わる。


子どもの学力にも影響する

運動と脳の関係は、高齢者だけの話ではありません。

アメリカのネイパービル学区(イリノイ州)は、1990年代に「0時限体育(Zero Hour PE)」と呼ばれるプログラムを導入しました。授業が始まる前の朝の時間に、心拍数を上げる運動を行うというものです[5]。

結果は驚くべきものでした。0時限体育に参加した生徒は、読解力と理解力が17%向上。しかも、参加しなかった生徒との差は学年が上がるにつれて拡大しました。

さらに、国際学力調査(TIMSS)では、ネイパービル学区の生徒は世界トップクラスの成績を収めました。理科で世界1位、数学で世界6位。アメリカの平均が18位と19位だったことを考えると、異常な成績です[5]。

日本でも、文部科学省の全国体力・運動能力調査のデータを分析すると、体力テストの成績が高い児童・生徒ほど、全国学力テストの正答率も高い傾向が一貫して見られています[6]。もちろん相関であり因果とは言い切れませんが、世界中の研究が同じ方向を指しているのは示唆的です。


「頭がクリアになる」は気のせいではない

クロスフィットを始めてから、午前中の仕事の質が明らかに変わりました。

朝6時に全力で動いた後、シャワーを浴びて出勤する。その頃には、頭がクリアになっている。メールの処理が速い。会議で言葉が出やすい。

以前は「運動は体を鍛えるもの」だと思っていました。でも9年続けてわかったのは、一番変わったのは「頭の回転」だということです。

これは主観的な話だけではなく、客観的な測定でも裏付けられています。運動直後には前頭前皮質の血流が増加し、実行機能(計画、判断、注意の切り替え)が向上します[7]。この効果は運動後2〜3時間持続します。

さらに面白い研究があります。2023年に発表されたメタ分析では、「運動しながら認知タスクを行う」。いわゆる「デュアルタスク」。が、運動単独よりも認知機能の改善に効果的だという結果が出ています[8]。つまり、ウォーキングしながらポッドキャストを聞いたり、エアロバイクを漕ぎながら本を読んだりすることには、二重の効果がある可能性があります。


認知症予防の「最強ツール」

WHOは2019年に発表した「認知機能低下および認知症のリスク低減ガイドライン」で、身体活動を最も推奨度の高い予防策の一つに位置づけました[9]。

世界の認知症患者は2050年までに1億5,200万人に達すると予測されています[10]。日本では2025年の時点で約700万人、65歳以上の5人に1人が認知症になるとされています。

現時点で認知症の根本治療薬は存在しません。だからこそ「予防」が重要になる。そして、最もエビデンスが蓄積されている予防策の一つが、運動です。

ランセット委員会(2020年)は、認知症の修正可能なリスク要因12項目を特定し、その中で「身体的不活動」を主要因の一つに挙げました[11]。運動不足を解消するだけで、世界の認知症の約3%は予防できると推計されています。

3%と聞くと少なく感じるかもしれませんが、数百万人規模の話です。


あなたの脳は、動くことを待っている

運動は、体を強くするだけのものではありません。脳を鍛え、記憶力を高め、集中力を上げ、将来の認知機能の低下から守ってくれる。

処方箋はいりません。特別な器具もいりません。歩くだけで、脳は変わり始めます。

あなたの脳は、最後にいつ「動いて」もらいましたか?

脳トレアプリに月額課金するより、30分歩いたほうが脳は鍛えられるかもしれない。

この章のポイント

  • 25万人のメタ分析で、運動は認知機能・記憶力・実行機能をいずれも有意に改善する
  • 筋肉から放出されるマイオカイン(イリシン等)が脳のBDNF分泌を促す「筋肉-脳クロストーク」
  • ピッツバーグ大学の研究:1年のウォーキングで高齢者の海馬体積が約2%増加し、加齢による縮小を逆転
  • WHOは身体活動を認知症予防の最重要策の一つに位置づけている

参考文献 [1] Singh B, Maher C, et al. Effectiveness of exercise for improving cognition, memory and executive function: a systematic umbrella review and meta-meta-analysis. Br J Sports Med. 2025. [2] Chang L, et al. Muscle-brain crosstalk as a driver of brain health in aging. GeroScience. 2025. [3] Islam MR, et al. Exercise hormone irisin is a critical regulator of cognitive function. Nat Metab. 2023;5(7):1153-1166. [4] Erickson KI, et al. Exercise training increases size of hippocampus and improves memory. Proc Natl Acad Sci. 2011;108(7):3017-3022. [5] Ratey JJ. Spark: The Revolutionary New Science of Exercise and the Brain. Little, Brown and Company. 2008. [6] 文部科学省. 全国体力・運動能力、運動習慣等調査. 2023. [7] Hillman CH, et al. Be smart, exercise your heart: exercise effects on brain and cognition. Nat Rev Neurosci. 2008;9(1):58-65. [8] Wollesen B, et al. Effects of dual-task management and resistance training on gait performance in older individuals. Front Aging Neurosci. 2023. [9] WHO. Risk reduction of cognitive decline and dementia: WHO guidelines. 2019. [10] Alzheimer's Disease International. World Alzheimer Report 2023. [11] Livingston G, et al. Dementia prevention, intervention, and care: 2020 report of the Lancet Commission. Lancet. 2020;396(10248):413-446.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第11回です。 前回 → 第10回「白井市が3,360万円を削減した方法」