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予防医療は「投資」である

「予防にお金を使うのはもったいない」。

そう考える人は、まだ多いかもしれません。健康なうちは、健康のありがたみがわからない。壊れて初めて、修理にお金を払う。

でも、数字は違うことを示しています。


企業の健康投資。1ドルが3ドルになる

アメリカのメタ分析では、企業の健康プログラムに対する投資効果は「1ドルあたり3.27ドルの医療費削減」と報告されています[1]。ROI(投資対効果)で言えば、227%です。

Baicker らがHealth Affairs誌に発表したこの研究(2010年)は、36の先行研究を統合したメタ分析です。対象は米国企業のウェルネスプログラム(運動促進、禁煙支援、体重管理、ストレスマネジメントなどを組み合わせた包括的プログラム)で、医療費削減だけでなく、欠勤コストの削減効果も「1ドルあたり2.73ドル」と報告されています[1]。

つまり、健康プログラムへの1ドルの投資は、医療費と欠勤コストを合わせて約6ドルのリターンを生む計算です。

ジョンソン・エンド・ジョンソンの「Live for Life」プログラムは40年以上の歴史があり、1ドルの投資に対して3ドル以上のリターンを生み出しています[2]。このプログラムは1979年に開始され、従業員に対して健康リスクアセスメント、フィットネスプログラム、栄養指導、ストレス管理を提供しています。長期追跡の結果、参加者は非参加者と比較して医療費の伸び率が年間約3.7%低いことが示されました。

SAS Institute(統計ソフトウェア大手)は、社内に本格的なフィットネスセンターを設置し、従業員に無料で提供しています。同社の離職率は業界平均の約20%に対して約4%と極めて低く、採用・研修コストの削減だけで年間数千万ドルの効果があると推計されています[3]。


日本の先進事例

日本でも、厚生労働省の試算で2030年までに予防医療と介護予防の推進により、1.5兆円超の医療費・介護費を削減できる可能性が示されています[4]。

予防は「コスト」ではない。「投資」です。

この認識を裏付ける日本企業の事例をいくつか見てみましょう。

花王の健康経営

花王は、健康経営銘柄に複数回選定されている先進企業です。同社は2008年から全従業員を対象にした「健康づくり支援」を展開し、歩数計の配布、社内ウォーキングイベント、保健師による個別指導などを実施しています。その結果、高リスク者(メタボ該当者)の割合が年々低下し、一人あたり医療費の伸び率が全国平均を下回っています[5]。

東京海上グループの取り組み

東京海上グループは、「健康経営推進の7つのテーマ」を掲げ、運動促進を重点施策の一つに位置づけています。全従業員向けのウォーキングキャンペーンでは、チーム対抗戦の仕組みを導入することで参加率を高め、平均歩数の向上と医療費の抑制効果を報告しています[6]。

中小企業でも効果はある

「健康経営は大企業の話でしょ?」という声をよく聞きます。しかし、中小企業のほうがむしろ効果が見えやすいケースもあります。従業員50人の企業であれば、数人が健康リスクを改善するだけで、健康保険組合の納付金に影響が出ます。

協会けんぽ(全国健康保険協会)のデータでは、健康宣言を行い具体的な取り組みを実施した中小企業は、そうでない企業と比べて被保険者一人あたりの医療費の伸び率が低い傾向にあることが報告されています[7]。


健康経営の「見えないリターン」

企業がこの事実に気づき始めています。

健康経営優良法人の認定制度は年々拡大し、大規模法人部門と中小規模法人部門を合わせた認定数は1万社を超えました。花王、東レ、富士通といった大手はもちろん、中小企業でも健康経営への取り組みが広がっています。

従業員が健康であれば、生産性が上がる。離職率が下がる。医療費が減る。企業ブランドも上がる。

「従業員の健康は経営課題である」。この認識が、ようやく一般的になりつつあります。

健康経営のリターンは、数字に表れるものだけではありません。経済産業省の調査では、健康経営優良法人に認定された企業は、就職活動中の学生からの評価が高い傾向にあることが示されています[8]。人手不足が深刻化する中で、「従業員の健康を大切にする企業」というブランディングは、採用競争力に直結します。

また、従業員のエンゲージメント(仕事への意欲と組織への帰属意識)も、健康経営と正の相関があります。Gallup社の調査では、ウェルビーイング(身体的・精神的な健康状態)が高い従業員は、そうでない従業員と比べて生産性が18%高く、離職率が43%低いことが報告されています[9]。


予防医療の国際的エビデンス

企業レベルだけでなく、国レベルでも予防医療の投資効果を示すエビデンスは蓄積されています。

WHO(世界保健機関)の「Best Buys」レポート(2017年)は、非感染性疾患(NCD:生活習慣病を含む)の予防において、最もコストパフォーマンスが高い介入策をリストアップしています[10]。その中に、「身体活動の促進」が含まれています。

具体的には、マスメディアを活用した身体活動キャンペーンや、都市計画における歩行・自転車利用の促進は、DALY(障害調整生命年)あたりのコストが非常に低い「ベストバイ」とされています。

イギリスのNHS(国民保健サービス)は、「Social Return on Investment(社会的投資収益率)」の枠組みで運動促進プログラムの効果を評価しています。地域の運動紹介プログラム(Exercise Referral Scheme)では、投資1ポンドあたり5〜8ポンドの社会的リターンが推計されています[11]。

オーストラリアの研究では、身体的不活動が国全体にもたらす経済コストは年間約139億豪ドル(約1兆3,000億円)と推計されています[12]。逆に言えば、国民の身体活動量を適切なレベルまで引き上げれば、それだけのコストが削減できる可能性があるのです。


個人レベルの「健康投資」

個人レベルでも同じです。

毎月の運動にかけるお金。食事の質を上げるためのコスト。睡眠環境を整える投資。

これらは「贅沢」ではありません。将来の医療費と、今日のパフォーマンスに対する投資です。

「予防」の難しさは、その効果が「見えない」ことにあります。投資信託の利回りはグラフで確認できますが、「運動したおかげで糖尿病にならなかった」ことは証明できません。防いだ災害は誰にも見えない。

でも、統計的に見れば、運動習慣のある人は確実に医療費が低く、生産性が高く、メンタルヘルスが良好です。個人ではその効果を「実感」しにくくても、集団としてのデータは明確です。

だからこそ、「数字を知る」ことが重要なのです。

月1万円のジム代は年間12万円。一方、糖尿病になれば年間の直接医療費は約24万円(自己負担3割で約7万円、残りは保険料から)。合併症が進めば人工透析で年間500万円。心筋梗塞のカテーテル治療は1回で約150万円。

壊れてから直すのは高くつく。壊れる前に備えるほうが、安い。


「投資」の視点で行動を変える

体も、経営も、社会も。原理は同じです。

最後に、「投資」の視点で健康を捉え直すための3つのフレームワークを提案します。

1. 時間の投資

1日20分の運動は、年間で約122時間。この122時間の投資が、将来の通院時間、入院期間、介護を受ける時間を大幅に減らす可能性がある。時間のROIとしても、優れた投資です。

2. お金の投資

ジム代、トレーニングシューズ、質の良い食材。これらは「消費」ではなく「投資」と捉える。年間の医療費削減額と生産性向上を考えれば、リターンは十分にある。

3. 注意(アテンション)の投資

自分の体の状態に注意を向けること自体が投資です。体重、血圧、睡眠の質、疲労度。これらを意識的にモニタリングすることで、問題が小さいうちに対処できる。「気づかなかったから手遅れになった」を防ぐ、最も安上がりな投資です。

予防は、地味です。効果が見えにくい。でも、数字は嘘をつきません。

予防は「コスト」ではない。「投資」です。

この章のポイント

  • 米国のメタ分析:企業の健康プログラムへの1ドル投資で3.27ドルの医療費削減
  • 健康経営優良法人は採用競争力・エンゲージメント・生産性すべてで優位に立つ
  • WHO「Best Buys」は身体活動の促進をコストパフォーマンス最高の介入策と位置づける
  • 個人レベルでも「時間・お金・注意(アテンション)」の3つの投資視点で健康を捉え直す

参考文献 [1] Baicker K, Cutler D, Song Z. Workplace wellness programs can generate savings. Health Affairs. 2010;29(2):304-311. [2] Ozminkowski RJ, et al. Long-term impact of Johnson & Johnson's Health & Wellness Program. J Occup Environ Med. 2002;44(1):21-29. [3] Pfeffer J. Dying for a Paycheck. HarperCollins; 2018. [4] 厚生労働省. 予防・健康づくりの推進による医療費・介護費の将来推計. 2021. [5] 花王株式会社. 健康経営の取り組みと成果. 統合レポート. 2023. [6] 東京海上ホールディングス. 健康経営レポート. 2023. [7] 全国健康保険協会(協会けんぽ). 健康宣言事業の効果検証. 2022. [8] 経済産業省. 健康経営の推進について. 2024. [9] Gallup. State of the Global Workplace Report. 2023. [10] World Health Organization. Tackling NCDs: "Best Buys" and other recommended interventions. 2017. [11] National Institute for Health and Care Excellence (NICE). Physical activity: exercise referral schemes. Public health guideline PH54. 2014. [12] Cadilhac DA, et al. The economic benefits of reducing physical inactivity: an Australian example. Int J Behav Nutr Phys Act. 2011;8:99.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第24回です。 前回 → 第23回「生活習慣病15兆円の重み」