ここまで75回にわたって、運動の素晴らしさを書いてきました。脳に効く、メンタルに効く、睡眠に効く、医療費が下がる、生産性が上がる、人間関係が変わる。データと体験を交えながら、「動くことの力」を伝えてきたつもりです。
でも、ここで医師として、正直に言わなければならないことがあります。
運動は万能薬ではありません。
「これだけ走っているのだから」。進行した大腸がんの患者
研修医の頃、救急外来で出会った40代の男性のことを、今でも覚えています。
マラソンが趣味で、月間走行距離は200kmを超えていました。「自分は健康だ」という確信を持っていた。健康診断もスキップしていた。「これだけ走っているのだから問題ないだろう」と。
搬送されてきたときの診断は、進行した大腸がんでした。
運動は、がんの発症リスクを下げることが示されています。WHO/IARCの報告によれば、身体活動は大腸がんリスクを約20〜25%低減させます[1]。しかし、「リスクを下げる」ことと「ゼロにする」ことは、まったく違います。 運動していても、がんにはなります。そして、がんは運動では治りません。手術、化学療法、放射線治療。適切な医療介入が必要です。
あの患者さんを見て、私は「運動への過信」がいかに危険かを思い知りました。
重度のうつ病には「運動しましょう」は無力である
この連載の第13回で、「うつには運動が薬より1.5倍効く」と書きました。Singh et al.のメタアナリシスに基づいた事実です[2]。
しかし、この研究が対象としているのは主に軽度から中等度のうつ症状です。重度の大うつ病。ベッドから起き上がれない、食事もとれない、死にたいという思いが頭を離れない。そのレベルの苦しみに対して、「運動しましょう」は無力です。むしろ、残酷です。
重度のうつ病には、薬物療法が必要です。場合によっては入院が必要です。認知行動療法などの専門的な心理療法が必要です。DSM-5の診断基準で大うつ病エピソードに該当する患者さんの約60〜70%は、抗うつ薬による症状改善が見られるというデータがあります[3]。運動はその回復過程を補助するものであって、代替するものではありません。
「運動していればメンタルは大丈夫」。こんなことは、精神科の臨床を知っている人間には言えません。
運動で治せないもののリスト
| 病態 | 必要な治療 |
|---|---|
| 骨折 | 整復と固定 |
| 感染症 | ワクチンと公衆衛生 |
| 自己免疫疾患 | 免疫抑制剤 |
| 糖尿病急性合併症 | インスリン療法と輸液 |
| 急性心筋梗塞 | カテーテル治療 |
当たり前のことを書いています。でも、この「当たり前」が見えなくなるほど、「運動万能論」は世の中に広がっています。
「Exercise is Medicine」の功罪
運動の効果を過信する風潮には、実はエビデンスに基づいた警鐘が鳴らされています。
2023年にBritish Journal of Sports Medicineに掲載されたエディトリアルでは、「Exercise is Medicine」キャンペーンの功罪が論じられました[4]。運動を医療の文脈に位置づけることで社会的な認知は高まった一方で、「運動さえすれば医療はいらない」という誤解を生むリスクがあると指摘されています。
運動は「薬」に喩えられることがあります。用量(強度・頻度・時間)があり、適応症があり、副作用もある。しかし、すべての病気に効く薬が存在しないように、すべての問題を解決する運動も存在しません。
運動が最も力を発揮するのは「予防」と「軽度〜中等度の改善」の領域です。具体的には、生活習慣病の一次予防、軽度〜中等度のうつ・不安の改善、慢性痛の管理、心血管疾患のリスク低減、認知機能の維持。これらの領域では、運動のエビデンスは極めて強固です。
しかし、重症化した疾患、急性期の病態、遺伝的な要因が大きい疾患、感染症。これらに対しては、専門的な医療が不可欠です。
私自身が「運動で治そう」として失敗した話
私自身、この区別を痛感した経験があります。
クロスフィットを始めて3年目の頃、左肩のインピンジメント症候群を発症しました。オーバーヘッドの動作で肩甲骨周囲に激痛が走る。最初は「トレーニングで治そう」と思いました。リハビリエクササイズを調べ、肩甲骨のモビリティドリルを毎日やり、フォームを修正した。
2ヶ月経っても治りませんでした。
整形外科を受診して、MRIを撮った結果、腱板の部分断裂が見つかりました。「運動で治そう」としていた2ヶ月間、断裂は進行していたかもしれない。医師に「なぜもっと早く来なかったのか」と言われたとき、自分が医師であることが恥ずかしくなりました。
適切な治療。注射、休息期間の設定、段階的なリハビリプログラム。を経て、半年後にようやくバーベルを持てるようになりました。あの経験から、「自分で治そうとする前に、まず診断を受ける」という原則を守るようになりました。
三段論法。運動の価値を正確に理解するために
この連載で繰り返し書いてきた「運動の効果」は、すべて本当です。データに基づいた事実です。
しかし、それは「運動だけでいい」という意味ではありません。
運動は万能ではない。だから医療がある。 医療は万能ではない。だから予防がある。 予防の最も強力なツールの一つが、運動である。
この三段論法が、この連載のスタンスです。「運動は万能薬ではない」と認めることは、運動の価値を否定することではありません。むしろ、運動の価値を正確に理解するための前提です。
できることとできないことを、分ける。その境界線を正直に引く。それが、運動を語る者の誠実さだと思っています。
次回は、「過度な運動は逆効果」について書きます。運動の限界を語るこの章は、正直さが命です。運動を推奨してきた人間だからこそ、言うべきことがあります。
この章のポイント
- 運動はがん・感染症・急性心筋梗塞・自己免疫疾患を治せない。「リスクを下げる」と「ゼロにする」は違う
- 重度のうつ病に「運動しましょう」は無力であり、時に残酷。薬物療法・心理療法が必要
- 「Exercise is Medicine」は「運動さえすれば医療はいらない」という誤解を生むリスクがある
- 運動は万能ではない→だから医療がある。医療は万能ではない→だから予防がある。その予防の中心に運動がある
参考文献 [1] World Cancer Research Fund / American Institute for Cancer Research. Physical activity and the risk of cancer. Continuous Update Project Expert Report. 2018. [2] Singh B, et al. Effectiveness of physical activity interventions for improving depression, anxiety and distress: an overview of systematic reviews. Br J Sports Med. 2023;57(18):1203-1209. [3] Cipriani A, et al. Comparative efficacy and acceptability of 21 antidepressant drugs for the acute treatment of adults with major depressive disorder: a systematic review and network meta-analysis. The Lancet. 2018;391(10128):1357-1366. [4] Nunan D. Exercise is Medicine: time for a critical perspective. Br J Sports Med. 2023;57(1):3-4.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第76回です。 前回 → 第75回「9年間続けてわかったこと」