連載の最終回です。最初に戻ります。
今朝も、西麻布のジムにいた
今朝も、西麻布のジムに行きました。
朝6時。まだ薄暗い表参道を歩いて、ジムの階段を下りる。扉を開けると、あの匂いがする。ゴムマットと汗と、少しだけ錆びた鉄の匂い。ホワイトボードに今日のWODが書いてある。隣では50代のKさんがバーベルにプレートを付けている。向かいでは30代のMさんがストレッチをしている。奥では60代のTさんがローイングマシンのモニターを確認している。
みんな、黙々と準備をしている。
そして、この人たちが驚くほど幸せそうに見えるのです。
9年前に立てた問い
第1回で、同じことを書きました。
「西麻布のジムで、クロスフィットを9年続けています。そこにいる年上の人々が、驚くほど幸せそうに見えます。」
9年前、この問いが頭に浮かんだ時、答えはわかりませんでした。「お金に余裕があるからだろう」「時間があるからだろう」「性格が明るいのだろう」。そんな表面的な推測しかできなかった。
85回の連載を経た今、やっと答えが見えています。
85回かけて向き合ってきたこと
85回かけて、この問いに向き合ってきました。
科学の言葉で説明してきました。BDNFが海馬の神経新生を促し、記憶力と学習能力を向上させる(第11回)。運動は抑うつ症状を薬物療法以上に改善する可能性がある(第13回)。7,000歩歩くだけでメンタルヘルスが改善する(第15回)。動いた日は深部体温の変化によって睡眠の質が上がる(第27回)。コルチゾールの日内変動が正常化し、ストレス耐性が向上する(第17回)。
文化の文脈で読み解いてきました。日本のフィットネス参加率3〜4%は、欧米の5分の1以下(第41回)。ホテルの朝のジムに日本人はいない(第42回)。部活で終わる国(第43回)。韓国のフィットネス革命(第44回)。
哲学的に考えてきました。バーベルは批判しない(第46回)。SNS時代の「比較」から降りる(第47回)。自分の体で生まれて、自分の体以外になれない(第55回)。AI時代に最後に残るのは身体(第56回)。
実践を語ってきました。週1回でいい(第66回)。行くだけの日があっていい(第67回)。習慣を科学する(第71回)。9年間続けてわかったこと(第75回)。
そして限界も、正直に書きました。運動は万能薬ではない(第76回)。過度な運動は逆効果(第77回)。運動できない人もいる(第78回)。
でも、最終回に書きたいのは、論文でもデータでもありません。もっとシンプルなことです。
今朝のWOD。「今、自分の体がここにある」
今朝のWODが始まりました。「3, 2, 1… Go!」のコールで、全員が動き出す。5ラウンド。デッドリフト、ボックスジャンプ、トーズ・トゥ・バー。きつい組み合わせです。
1ラウンド目。体が温まっていく。心拍が上がる。呼吸が速くなる。
2ラウンド目。バーベルが重くなってくる。隣のKさんも同じペースで動いている。Kさんは会社経営をしながら、毎朝ここに来る。「朝の運動が、一日の意思決定の質を変える」と言っていた。
3ラウンド目。足が重い。でも、ボックスジャンプで飛ぶたびに、体が「まだいける」と言っている。自分の限界が、少しずつ見えてくる。
4ラウンド目。周りから「ナイス!」という声が聞こえる。Tさんは自分のペースを守りながら、淡々と動いている。60代でこの強度のWODをこなしている。始めたのは50代半ば。「遅すぎるスタートなんてない」。Tさんの存在そのものが、その証明です。
5ラウンド目、最終ラウンド。肺が燃えている。全身の筋肉が悲鳴を上げている。でも、あと少し。最後のトーズ・トゥ・バーを終えた瞬間、床に倒れ込む。
天井を見上げながら、荒い呼吸を整えている。心臓がバクバクしている。汗が額から流れ落ちる。
この瞬間。きつくて、苦しくて、でも清々しいこの瞬間。に、いつも同じことを思います。
今、自分の体がここにある。
余計な思考が消えている。SNSの通知も、メールの山も、締め切りのプレッシャーも、一切消えている。ただ、自分の心臓の音と、肺の空気と、筋肉の疲労だけがある。
この瞬間ほど、「自分」を強く感じる時はありません。
WOD後の穏やかな空気
WODが終わった後のジムの空気が好きです。
みんな、床に座ったり、壁にもたれたり、水を飲んだりしている。会話は少ない。でも、そこには穏やかな空気が流れている。
「おつかれさま」「今日キツかったね」「デッドリフトの調子よかったね」。短い言葉を交わして、それぞれの日常に戻っていく。
この人たちの表情が、幸せそうに見えるのです。
きつい運動の直後なのに。汗だくで、髪がぐちゃぐちゃで、見た目は決して「幸せそう」ではないかもしれない。でも、目が違う。声が違う。立ち姿が違う。
何が違うのか。85回考えて、ようやくわかりました。
幸せそうな人の正体
幸せそうな人の正体は、「自分のことを知っている人」です。
自分の体が何を求めているかを知っている。何時間寝れば回復するかを知っている。何を食べると調子がいいかを知っている。どこまでが限界で、どこからが無理かを知っている。ストレスが溜まると体のどこに出るかを知っている。自分の弱さも、強さも、受け入れている。
この「自分への解像度」が高い人は、ブレません。
他人と比較しません。第46回で書いた通り、バーベルの前では肩書きもフォロワー数も関係ない。自分と向き合うだけ。
穏やかです。第48回で書いた通り、体力という「最後の保険」を持っている人には、余裕がある。
しなやかです。第75回で書いた通り、9年間の波を乗り越えてきた人は、ちょっとやそっとでは折れない。
そして、周囲に影響を与えています。第84回で書いた通り、一人が動くと、3次のネットワークまで波紋が広がる。
85回かけて辿り着いた答え
この連載のタイトルは「なぜ動く人は、幸せそうなのか」です。
85回かけて辿り着いた答えは。
動くことで自分を知った人は、幸せそうに見える。
それだけのことでした。
運動がBDNFを増やすから幸せなのではありません。コルチゾールが安定するから幸せなのでもありません。医療費が減るから幸せなのでもありません。
動くことを通じて、自分の体の声が聞こえるようになる。体の声が聞こえると、心の声も聞こえるようになる。自分が何を求め、何を大切にし、何のために生きているのかが、少しずつクリアになっていく。
その「自己理解の深さ」が、外からは「幸せそう」に見えるのだと思います。
シンプルですが、9年かけて辿り着いた答えです。
一本の糸。同じメッセージを85回
第1回で書いた一文を、もう一度書きます。
動くことは、自分を知る旅の入口になります。
この一文が、85回の連載すべてを貫く一本の糸でした。
第2回「人生とは、自分のことを知る旅である」。第3回「体の解像度は、意外と低い」。第7回「この連載で伝えたいこと」。第28回「解像度が上がると食事も変わる」。第39回「自分の体との対話を始める」。第55回「自分の体で生まれて、自分の体以外になれない」。第82回「動くことは自分を知る旅の入口」。
すべて、同じことを言っていました。角度を変え、データを変え、体験を変えながら、同じメッセージを繰り返していたのです。
動くことは、自分を知ることの始まりです。
85回読んでくださった方へ
85回にわたって読んでくださった方へ。ありがとうございました。
この連載は「運動のすすめ」ではありませんでした。「自分を知る旅への招待状」でした。
もしこの連載を通じて、あなたが少しでも自分の体に関心を持ったなら。少しでも「動いてみようかな」と思ったなら。あるいは、すでに動いている人が「続けよう」と思ったなら。
それだけで、この連載を書いた意味があります。
9年前と同じ道を歩きながら
今朝のジムの帰り道、表参道の空気が気持ちよかった。
汗が乾いていく感覚、筋肉の心地よい疲労感、少し速くなった鼓動。全身が「今日も生きている」と言っている。
9年前と同じ道を歩いています。でも、歩いている自分は、9年前とはまったく違う。体も、心も、人生への解像度も。
特別なことは、何もしていません。ただ、動き続けた。自分の体と向き合い続けた。やめなかった。それだけで、ここまで来ました。
最後に、一つだけ。
人生は、自分のことを知る旅です。 その旅の入口に、あなたが立ってくれることを願っています。
この章のポイント
- 9年前に立てた問い「なぜ彼らは幸せそうに見えるのか」への答えは、「自分のことを知っている人だから」
- WOD直後の「今、自分の体がここにある」という瞬間ほど、自分を強く感じる時はない
- 自己理解の深さが外からは「幸せそう」に見える。BDNFでもコルチゾールでも医療費でもない
- 連載全85回を貫く一本の糸は「動くことは、自分を知る旅の入口」。その旅の入口に、あなたが立ってくれることを願っています
参考文献 [1] Chekroud SR, et al. Association between physical exercise and mental health in 1.2 million individuals in the USA. The Lancet Psychiatry. 2018;5(9):739-746. [2] Seligman MEP. Flourish: A Visionary New Understanding of Happiness and Well-being. Free Press. 2011. [3] Singh B, et al. Effectiveness of physical activity interventions for improving depression, anxiety and distress: an overview of systematic reviews. Br J Sports Med. 2023;57(18):1203-1209. [4] Critchley HD, Garfinkel SN. Interoception and emotion. Curr Opin Psychol. 2017;17:7-14.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の最終回(第85回)です。 前回 → 第84回「あなたが動いたら、隣の人も動く」
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。