アート大学院に通っていた時、ふと気づいたことがあります。身体を鍛えることは、彫刻を作ることに似ている、と。
削り出すことと積み上げること
彫刻家は、石から不要な部分を削り出して形を作ります。あるいは、粘土を少しずつ足して形を整えます。
筋トレも同じです。脂肪を落として輪郭を出す。筋肉をつけてラインを作る。毎日少しずつ、理想の形に近づけていく。
完成形は人それぞれ。ミケランジェロのダビデ像を目指す人もいれば、ジャコメッティの細い彫刻を目指す人もいる。
ミケランジェロは、彫刻について「石の中にすでに像が存在している。私はただ、余分な部分を取り除いているだけだ」という趣旨のことを語ったとされています。この言葉は、ボディメイクにもそのまま当てはまります。あなたの体の中には、すでに「あなたの形」がある。運動は、それを掘り出す行為です。
この比喩は、単なるロマンチックな空想ではありません。人間の筋骨格系は、遺伝子によって「基本的な設計図」が決められていますが、その表現。筋肉の大きさ、体脂肪率、姿勢、プロポーション。は環境と行動によって大きく変わります。エピジェネティクス(後成遺伝学)の研究が示すように、遺伝子は「固定された運命」ではなく、「可能性の地図」です[1]。運動という行動が、遺伝子の発現を変え、体の形を変えていくのです。
身体をアートとして見る文化
Netflixの「Too Hot to Handle」や「Physical 100」を見たことがありますか。
これらの番組が面白いのは、身体を「作品」として見せていることです。出演者たちは自分の体を人生賭けて作り上げている。それは一つの表現であり、一つのアートです。
好き嫌いはあるでしょう。でも、「自分の体を意図的に作り上げる」という行為自体には、創造性があります。
身体を「芸術作品」として見る視点は、実は古代ギリシャにまで遡ります。古代ギリシャでは、「カロカガティア(kalokagathia)」。美しさと善さの一致。という理念がありました[2]。鍛えられた美しい体は、内面の徳の表現だと考えられていたのです。古代オリンピックの競技者が裸で競い合ったのは、身体そのものが「作品」であり「表現」であったからです。
この考え方は、ルネサンス期にも復活しました。レオナルド・ダ・ヴィンチの『ウィトルウィウス的人体図』は、人体の比例と調和を数学的に追求したものです。ダ・ヴィンチは人体解剖を行い、筋肉の一つひとつを正確にスケッチしました。彼にとって、人体を理解することは芸術の根幹でした。
現代においても、身体を芸術として捉える視点は健在です。ファッション、ダンス、パフォーマンスアート。これらはすべて、身体を「表現の媒体」として使う営みです。フィットネスも、その延長線上にあります。
「プロセスのアート」としてのトレーニング
アートの世界には、「プロセスアート」という概念があります。完成した作品そのものよりも、作る過程に価値を見出す芸術の形態です。ジャクソン・ポロックの絵画がまさにそうで、キャンバスに絵具を滴らせる行為そのものが作品になります。
身体づくりも、同じ構造を持っています。
「理想の体」というゴールに到達することが目的なのではなく、毎日のトレーニングそのもの。汗を流し、筋肉を使い、呼吸を整え、限界を超えようとする。その過程全体が「作品」なのです。
哲学者ジョン・デューイは『経験としての芸術』(Art as Experience, 1934年)で、芸術を「完成品」ではなく「経験の質」として定義しました[3]。日常の経験が十分に深く、統合的であれば、それ自体が「芸術的」であると。
この定義に従えば、毎朝6時にジムでバーベルを持ち上げる行為は、十分に芸術的です。集中し、全身を使い、限界と対話する。この経験の「質」が、彫刻家がノミを振るう行為と本質的に異なるとは、私には思えません。
素材としての自分の体
私たちは、生まれた時にこの体を渡されました。
そこからどう形を変えるかは、自分次第です。太くするのも、細くするのも、強くするのも、柔らかくするのも。
自分の体は、一生かけて作り上げる作品です。
ただし、この「素材」には個性があります。骨格、筋繊維の比率(速筋と遅筋の割合)、脂肪のつき方、関節の可動域。これらは遺伝によって大きく左右されます。ある人はテストステロンの分泌量が多く筋肉がつきやすい。別の人はコラーゲンの柔軟性が高く関節の可動域が広い[4]。
彫刻家が大理石と花崗岩では異なるアプローチを取るように、私たちも自分の「素材」を理解した上で、その素材に合った「彫り方」を見つける必要があります。
これは「遺伝の限界を受け入れろ」という話ではありません。むしろ、「自分の素材の特性を知ることが、最も効率的な作品づくりにつながる」という話です。遺伝子検査で筋繊維タイプを調べる人もいますが、実際にはトレーニングの中で自分の体の反応を観察し続けることが、最も実践的な「素材理解」の方法です。
「未完成」という美しさ
この視点を持つと、運動の意味が少し変わります。「健康のため」「ダイエットのため」という機能的な目的だけでなく、「自分という作品を作っている」という感覚が生まれます。
きつい日もあります。思うように変わらない時期もあります。でも、それは彫刻家が石と格闘しているのと同じです。
日本の美意識には「わび・さび」や「不完全の美」という概念があります。千利休の茶碗は、完璧な円形ではなく、あえて歪みを残しています。それが美しい。
体づくりも同じかもしれません。完璧なシンメトリーを追求する必要はありません。今の自分の体は「制作途中の作品」であり、その不完全さも含めて「今の自分」です。
フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンの作品には、あえて未完成のまま残されたものがあります。石から上半身だけが彫り出され、下半身はまだ石の中に埋もっている。この「未完成の美」が、見る者の想像力をかき立てる。
あなたの体も、常に「未完成」です。でも、それは欠点ではなく、可能性です。明日の一回のトレーニングで、また少しだけ形が変わる。その連続が、一生をかけた作品になる。
一打一打が、形を作っていく。
この章のポイント
- 身体を鍛えることは彫刻づくりに似ている。遺伝子は固定された運命ではなく可能性の地図
- 古代ギリシャのカロカガティアからダ・ヴィンチまで、身体は常に芸術と表現の媒体だった
- ジョン・デューイの定義に従えば、毎朝のトレーニングそれ自体が「経験としての芸術」である
- わび・さびと同様、不完全さこそ可能性。明日の一回が形を変え、その連続が一生の作品になる
参考文献 [1] Denham J, et al. Exercise: Putting action into our epigenome. Sports Med. 2014;44(2):189-209. [2] Crowther NB. Sport in Ancient Times. Praeger, 2007. [3] Dewey J. Art as Experience. Minton, Balch & Company, 1934. [4] Arden NK, Spector TD. Genetic influences on muscle strength, lean body mass, and bone mineral density. J Bone Miner Res. 1997;12(12):2076-2081.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第52回です。 前回 → 第51回「デカければいいは幻想」