この連載で、一つだけ覚えていてほしいことがあるとすれば、それは今日の話です。82回目にして、核心のメッセージを書きます。
動くことは、自分を知る旅の入口です。
80回書いた今、はっきりした確信
第2回で、「人生とは、自分のことを知る旅である」と書きました。あの回が、この連載全体の哲学的な土台です。
当時はまだ漠然としていた感覚が、80回以上書いた今、はっきりとした確信になっています。
私たちは驚くほど、自分のことを知りません。
何時間眠ると本当に回復するのか。どんな食事をした翌日が最も調子がいいのか。ストレスが溜まると体のどこに出るのか。自分の心拍数の安静時の正常値は何bpmか。柔軟性が落ちているのか、筋力が落ちているのか、それとも両方なのか。
毎日使っている自分の体のことを、ほとんど知らないまま生きている。第3回で「体の解像度は、意外と低い」と書いたのは、この事実に対する驚きでした。
「部屋で静かに座っていられない」現代人
外ばかり見ていました。他人の評価、SNSのフォロワー数、仕事の数字、業界のトレンド、株価、為替、ニュース。目の前のスクリーンに映る情報は際限なく増え続け、自分の内側に向ける注意はどんどん減っていく。
哲学者のブレーズ・パスカルは、「人間の不幸は、部屋で静かに座っていられないことから生じる」と書きました。現代に置き換えれば、「人間の不幸は、スマートフォンを置いて自分の体の声を聞けないことから生じる」と言えるかもしれません。
ポジティブ心理学の研究者Sonja Lyubomirskyは、幸福の要因を分析し、「意図的な活動(Intentional Activity)」が幸福感の約40%を左右すると報告しています[1]。遺伝が50%、環境が10%、そして自分が意識的に選ぶ行動が40%。この「意図的な活動」の中で、運動は最もアクセスしやすく、効果が実証されているものの一つです。
しかし、私がここで強調したいのは、運動の生理学的な効果。BDNF、セロトニン、コルチゾール調整。ではありません。それらは第1部と第2部で十分に書きました。
今日伝えたいのは、運動が自己認識の解像度を上げるということです。
動き始めてから、私に起きた5つの変化
動き始めてから、私に起きた変化を振り返ってみます。
体の信号が聞こえるようになった。 以前は「なんとなくだるい」「なんとなく調子悪い」で済ませていたものが、「睡眠が足りていない」「水分が足りていない」「前日の食事が重すぎた」「ストレスが溜まっている」と、原因を特定できるようになりました。
自分の限界がわかるようになった。 バーベルの前に立てば、今日の自分のコンディションが数字で出ます。いつもの重量が重く感じる日は、何かが足りていない。逆に、軽く感じる日は、すべてが噛み合っている。この「感覚の精度」は、9年間で確実に上がりました。
食事が自然に変わった。 第28回で「解像度が上がると食事も変わる」と書きました。体を動かすと、体が何を求めているかがわかるようになる。運動した日の夕食は、自然と野菜とタンパク質を選んでいる。ジャンクフードが「欲しくなくなる」のではなく、「体が求めていないのがわかる」のです。
睡眠の質が見えるようになった。 動いた日と動かなかった日で、入眠の速さ、中途覚醒の有無、起床時の感覚がまるで違う。これは主観だけでなく、ウェアラブルデバイスのデータでも確認できます。
メンタルの波が予測できるようになった。 ストレスが溜まるとバーベルが重くなり、HRV(心拍変動)が下がる。それに気づけば、無理をしない日を作れる。自分の精神状態を「体のデータ」を通じて客観視できるようになったのです。
内受容感覚(Interoception)。体の声を聞く能力
心理学には「内受容感覚(Interoception)」という概念があります。自分の体の内部の状態。心拍、呼吸、消化、筋肉の緊張。を感じ取る能力のことです。
近年の研究では、内受容感覚の精度が高い人ほど、感情の調整が上手く、意思決定の質が高く、ウェルビーイングのスコアが高いことが報告されています[2]。つまり、「体の声が聞こえる人」は、感情にも意思決定にも長けている傾向がある。
そして、運動は内受容感覚を鍛えるのに最も効果的な方法の一つです。
運動中は、心拍が上がり、呼吸が速くなり、筋肉が疲労し、体温が上昇する。これらの身体的な変化を「感じる」経験を繰り返すことで、体の信号をキャッチする能力が向上していく。
ヨガやマインドフルネスも内受容感覚を高めることが知られていますが[3]、高強度の運動は、より顕著な身体変化を通じて、より強い信号を体に送ります。クロスフィットのWODが終わった直後。心臓がバクバクし、肺が悲鳴を上げ、全身の筋肉が震えている。あの瞬間ほど、自分の体の存在を強く感じる時はありません。
この連載は「運動のすすめ」ではない
この連載は、「運動のすすめ」ではありません。
「自分を知る旅への招待状」です。
動くことは、その旅の最も確実な入口です。体を動かすと、体の声が聞こえるようになる。声が聞こえると、食事が変わる。食事が変わると、睡眠が変わる。第38回で書いた「三本柱」が回り始める。
そして、体の解像度が上がると、人生全体の解像度が上がります。
仕事の判断が速くなる。人間関係のストレスに振り回されにくくなる。「自分は何が好きで、何が嫌いで、何を大切にしたいのか」がクリアになる。
第46回で「バーベルは批判しない」と書きました。バーベルの前では、肩書きもフォロワー数も関係ない。ただ「今の自分」と向き合うだけです。この純粋な自己対峙の経験が、外の世界の雑音を静かにし、内なる声を聞こえやすくしてくれるのだと思います。
行き着く先は同じ。動くことは、自分を知ることの始まり
82回にわたって書いてきたことの本質は、ここに集約されます。
動く人が幸せそうなのは、自分のことを知っている人だから。
自分を知っている人は、ブレません。他人と比較しません。自分の軸を持っています。穏やかで、しなやかで、ちょっとやそっとのことでは折れない。
その軸を作る入口が、「動く」ことだったのです。
科学的に言えば、BDNFと神経可塑性。心理学的に言えば、内受容感覚と自己効力感。哲学的に言えば、自己との対話。
どの切り口で説明しても、行き着く先は同じです。動くことは、自分を知ることの始まりです。
この章のポイント
- 私たちは驚くほど自分のことを知らない。運動は自己認識の解像度を上げる最も確実な入口
- 幸福の40%は「意図的な活動」が決める。運動はその中で最もアクセスしやすく効果が実証されている
- 内受容感覚の精度が高い人ほど、感情調整・意思決定・ウェルビーイングに優れる
- 動く人が幸せそうなのは、自分のことを知っている人だから。その軸を作る入口が「動く」こと
参考文献 [1] Lyubomirsky S, et al. Pursuing happiness: The architecture of sustainable change. Rev Gen Psychol. 2005;9(2):111-131. [2] Critchley HD, Garfinkel SN. Interoception and emotion. Curr Opin Psychol. 2017;17:7-14. [3] Gibson J. Mindfulness, Interoception, and the Body: A Contemporary Perspective. Front Psychol. 2019;10:2012.
この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第82回です。 前回 → 第81回「ビジネスアスリートを5年で1%増やす」