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白井市が3,360万円を削減した方法

「従業員の健康」が、数字に出る時代になっています。

千葉県白井市は、市職員の健康増進プログラムを導入し、年間約3,360万円の医療費削減を達成しました。九州テクノメタルは、社員の運動プログラム導入後に売上が143%に伸びたと報告しています。

「健康経営」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。


1ドルの投資が3ドルになって返ってくる

企業が従業員の健康に投資する。それが業績に返ってくる。この流れが、日本でも加速しています。

海外のデータはさらに明確です。アメリカのメタ分析では、健康プログラムへの1ドルの投資に対し、3.27ドルの医療費削減効果があるとされています[1]。ジョンソン・エンド・ジョンソンは40年以上にわたる「Live for Life」プログラムで、1ドルの投資あたり3ドル以上のリターンを報告しています[2]。

この数字の裏には、具体的な施策があります。ジョンソン・エンド・ジョンソンのプログラムは、社内にフィットネスセンターを設置し、禁煙支援、栄養指導、メンタルヘルスカウンセリングを包括的に提供するものです。40年以上の追跡で、参加者の喫煙率は26%から4%に低下し、高血圧の割合も半減しました[2]。

花王、東レ、富士通。国内の大手企業も、健康経営の取り組みを本格化しています。AIやウェアラブルを活用した従業員の健康管理は、もはやコストではなく「投資」として扱われています[3]。


グーグルは社員を「歩かせる」

テック業界の巨人たちも、従業員の身体活動に巨額の投資をしています。

Googleは本社キャンパスに社内フィットネスセンター、屋外プール、ロッククライミングウォールを設置し、社員が日常的に体を動かせる環境を整えています。しかし、最も注目すべきは建物の設計思想です。Googleの新本社は意図的に「歩かなければならない」動線設計になっている。エレベーターよりも階段が目立つ位置に配置され、カフェテリアやミーティングルームは異なるフロアや建物に分散されています[4]。

Appleのアップルパークも同様です。巨大なリング型の建物は、周囲をジョギングすると約1.6kmのランニングコースになります。従業員向けの大規模フィットネスセンターに加え、敷地内にはハイキングトレイルも整備されています[5]。

Salesforceは「Ohana Culture(家族文化)」の一環として、従業員にウェルネスプログラムへの参加を強く推奨し、月額100ドルのウェルネス手当を支給しています[6]。

これらの企業が「従業員の運動」にここまで投資するのは、慈善事業ではありません。ビジネス上のリターンがあるからです。


「見えない損失」の正体。プレゼンティーズムとアブセンティーズム

なぜ、健康投資にリターンがあるのか。

理由はシンプルです。体調不良のまま出勤する「プレゼンティーズム」と、体調不良で欠勤する「アブセンティーズム」。この二つが、企業の生産性を大きく蝕んでいるからです。

腰痛で集中できない社員。メンタル不調でパフォーマンスが落ちている社員。睡眠不足で判断力が鈍っている社員。これらの「見えない損失」は、想像以上に大きい。

驚くべきデータがあります。アメリカの研究では、プレゼンティーズムによる生産性損失は、アブセンティーズムの2〜3倍に達するとされています[7]。つまり、「休まないけど調子が悪い」人のコストは、「休んでいる」人のコストより遥かに大きい。

日本の東京大学の研究チームの推計では、プレゼンティーズムによる1人あたりの年間損失額は約73万円。これは医療費の4倍以上です[8]。年間総額では数十兆円規模になると試算されています。

日本全体で見ると、メンタルヘルスの経済損失は年間約7兆円[9]。生活習慣病の医療費は約15兆円[10]。これらの一部は、運動習慣で予防できる可能性があります。


日本の「健康経営銘柄」の実績

日本でも、健康経営は着実に広がっています。

経済産業省が2014年から始めた「健康経営銘柄」制度は、従業員の健康に積極的に投資する上場企業を選定するものです。2024年の時点で、「健康経営優良法人」の認定を受けた企業は大規模法人で2,988社、中小規模法人で16,733社に達しました[3]。

興味深いのは、健康経営銘柄に選定された企業の株価パフォーマンスです。経済産業省の分析によると、健康経営銘柄のポートフォリオはTOPIXを中長期的に上回る傾向が見られています[3]。「従業員の健康に投資する企業は、株式市場でも評価される」ということです。

具体的な事例を見てみましょう。

味の素は、全社員の睡眠改善プログラムと運動習慣化プログラムを導入し、プレゼンティーズムスコアを約10%改善しました[11]。丸井グループは、ウォーキングイベントや社内フィットネス施設の設置により、社員の運動実施率を60%以上に引き上げています[12]。

中小企業にも成功事例があります。長野県の建設会社フジ建設は、社員30人規模ながら毎朝15分のラジオ体操と月1回のウォーキングイベントを導入し、3年間で傷病による欠勤日数を40%削減しました。


世界の先進事例。イギリスの「処方運動」制度

世界に目を向けると、さらに先進的な取り組みがあります。

イギリスでは、NHS(国民保健サービス)が「社会的処方(social prescribing)」の一環として、医師が患者に運動プログラムを「処方」する制度を全国展開しています[13]。かかりつけ医が「週3回、30分のウォーキング」を処方箋のように出し、地域のスポーツ施設と連携して実施をサポートする。

この制度の評価によると、参加者の約60%が12週間後も運動を継続し、NHS全体で年間数百万ポンドの医療費削減に貢献しているとされています[13]。

フィンランドでは、国が「運動は医療」という政策方針を明確に打ち出し、自治体が市民にフィットネス施設の利用補助金を出しています。結果として、フィンランドの成人の約70%が週に1回以上の運動習慣を持っており、日本の約28%と大きな差があります[14]。

オーストラリアでは、2016年に運動科学者団体(ESSA)が策定したガイドラインに基づき、慢性疾患患者への「運動処方」が医療保険の対象になっています。これにより、2型糖尿病患者の運動プログラム参加率が大幅に向上しました[15]。


あなた個人の「健康投資」

ここで大事なのは、これが「企業の話」だけではないということです。

あなた個人にも、同じことが起きています。体調がいい日と悪い日で、仕事の質がどれだけ違うか。運動した日としなかった日で、午後の集中力がどれだけ変わるか。

試しに計算してみてください。年収600万円の人が、プレゼンティーズムで生産性が15%落ちているとしたら、年間90万円分の「自分への損失」が生じていることになります。週3回、30分の運動で、その半分でも取り戻せるとしたら。ジムの月会費1万円は、圧倒的に「お得な投資」です。

個人レベルの「健康投資」は、会社の健康経営プログラムを待たなくても始められます。

明日は、運動が脳に与える直接的な効果。BDNFと記憶力の話をします。

「休まないけど調子が悪い」人のコストは、「休んでいる」人のコストより遥かに大きい。

この章のポイント

  • 健康プログラムへの1ドル投資に対し、3.27ドルの医療費削減効果(米国メタ分析)
  • プレゼンティーズム(出勤しても不調)の損失はアブセンティーズムの2〜3倍、年間1人約73万円
  • Google・Apple・Salesforce等のテック企業は「歩かなければならない動線」を設計思想に組み込んでいる
  • 健康投資は企業だけでなく個人レベルでも有効。ジムの月会費は「お得な投資」になり得る

参考文献 [1] Baicker K, Cutler D, Song Z. Workplace wellness programs can generate savings. Health Affairs. 2010;29(2):304-311. [2] Ozminkowski RJ, et al. Long-term impact of Johnson & Johnson's Health & Wellness Program. J Occup Environ Med. 2002;44(1):21-29. [3] 経済産業省. 健康経営の推進について. 2024. [4] Waber B, et al. Workspaces that move people. Harvard Business Review. 2014. [5] Apple Inc. Environmental Responsibility Report. 2023. [6] Salesforce. Ohana Culture and Employee Wellbeing Report. 2023. [7] Hemp P. Presenteeism: at work、but out of it. Harvard Business Review. 2004;82(10):49-58. [8] 東京大学政策ビジョン研究センター. 健康経営評価指標の策定・活用事業成果報告書. 2016. [9] 慶應義塾大学. メンタルヘルスの経済的損失に関する研究. [10] 厚生労働省. 令和3年度 国民医療費の概況. 2023. [11] 味の素グループ. 統合報告書 2023. [12] 丸井グループ. Well-being Report 2023. [13] NHS England. Social prescribing and community-based support. 2023. [14] European Commission. Eurobarometer on Sport and Physical Activity. 2022. [15] Exercise & Sports Science Australia (ESSA). Exercise is Medicine Position Statement. 2019.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第10回です。 前回 → 第9回「朝の運動がその日の挑戦を変える」