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生活習慣病15兆円の重み

日本の年間医療費は約44兆円です(2021年度)[1]。

このうち、生活習慣病。糖尿病、高血圧、脂質異常症、虚血性心疾患など。が占める割合は約15兆円。全体の3分の1以上です。

15兆円。東京オリンピックの総経費(約1.7兆円)の約9倍です。

この数字の意味を、もう少し丁寧に見ていきます。


15兆円の内訳

生活習慣病と一口に言っても、その中身は多岐にわたります。

厚生労働省の国民医療費の疾患別内訳を見ると、主な構成は以下の通りです[1]。

  • 循環器系の疾患(高血圧、虚血性心疾患、脳血管疾患など):約6兆1,000億円
  • 内分泌・代謝疾患(糖尿病、脂質異常症など):約2兆6,000億円
  • 悪性新生物(がん):約4兆8,000億円
  • 筋骨格系疾患(腰痛、変形性関節症など):約2兆6,000億円

がんのすべてが生活習慣に起因するわけではありませんが、国立がん研究センターの推計では、日本人のがんの約40〜50%は予防可能な生活習慣要因(喫煙、飲酒、肥満、運動不足、食事など)に関連しています[2]。

糖尿病だけを取り出しても、その経済的インパクトは巨大です。日本の糖尿病患者数は約1,000万人、予備群を含めると約2,000万人。糖尿病の年間直接医療費は約1兆2,000億円ですが、合併症(腎不全による人工透析、糖尿病網膜症、末梢神経障害など)を含めると、関連医療費はさらに膨らみます[3]。

人工透析だけでも、患者一人あたりの年間医療費は約500万円。日本の透析患者数は約34万人で、総額約1兆7,000億円が透析医療に費やされています[4]。そして、透析導入の原因の第1位は糖尿病性腎症です。


メンタルヘルスの経済損失

さらに、メンタルヘルスの経済損失は年間約7兆円と推計されています[5]。プレゼンティーズム(体調不良のまま出勤して生産性が低下すること)による損失を含めると、この数字はさらに膨らみます。

合わせて22兆円。

この22兆円という数字を別の角度から見てみましょう。日本の防衛費は約5兆円。文教科学振興費は約5兆3,000億円。公共事業費は約6兆1,000億円。生活習慣病とメンタルヘルスの経済損失は、これらの主要予算を合わせたものに匹敵する規模です。

もちろん、これらすべてが運動で解決できるわけではありません。でも、その一部。糖尿病予備群への介入、軽度のうつへの運動療法、腰痛の予防。は、運動習慣によって確実に減らせる領域です。


「生活習慣」はどれくらい効くのか

アメリカのDPP(Diabetes Prevention Program)研究では、生活習慣の改善(食事と運動)によって、2型糖尿病の発症リスクが58%低下しました[6]。薬物療法(メトホルミン)の31%を大きく上回る数字です。

生活習慣の改善は、薬より効くことがある。

このDPP研究の意義は、「どれくらいの運動で効果が出るか」も明確に示した点にあります。目標は「週150分の中等度の身体活動」と「体重の7%減量」。週150分は、1日約20分です。ジョギングでもウォーキングでもいい。この「1日20分の運動」が、糖尿病の発症リスクをほぼ半減させたのです。

DPP研究のさらに重要なポイントは、その効果が長期間持続したことです。10年間の追跡調査(DPP Outcomes Study)では、生活習慣介入群の糖尿病発症リスクは依然として対照群より34%低いままでした[7]。つまり、一時的な効果ではなく、生活習慣の改善がもたらす恩恵は持続するのです。

DPP研究の結果は、日本でも再現されています。日本のJ-DOIT3(Japan Diabetes Optimal Integrated Treatment Study for 3 major risk factors)など、複数の大規模研究が生活習慣介入の有効性を確認しています。


高血圧。最も「もったいない」疾患

生活習慣病の中で、最も患者数が多く、最も予防可能なのが高血圧です。

日本の高血圧患者数は約4,300万人。成人の3人に1人が高血圧です[8]。しかも、このうち適切に血圧がコントロールされている人は約3割にとどまります。

高血圧は、脳卒中、心筋梗塞、心不全、腎臓病の最大のリスク因子です。日本人の死因の上位を占める循環器疾患の多くは、高血圧の適切な管理によって予防できます。

運動は、血圧を下げる効果が明確に示されています。Cornelissenらのメタ分析(2013年)では、有酸素運動によって収縮期血圧が平均3.5mmHg、拡張期血圧が平均2.5mmHg低下することが示されました[9]。「たった3.5mmHg」と思われるかもしれませんが、集団レベルでは、収縮期血圧が2mmHg低下するだけで、脳卒中の死亡率が約10%、心疾患の死亡率が約7%低下すると推計されています[10]。

年間約6兆円の循環器系疾患の医療費のうち、仮に10%が高血圧の予防によって削減できるとすれば、6,000億円です。運動だけでそのすべてが実現するわけではありませんが、運動がその重要な一角を担うことは、エビデンスが示しています。


構造的矛盾。予防にインセンティブが働かない

第5回で書いた「健康な人が増えると困る構造」を思い出してください。医療費15兆円の構造的矛盾。病気が増えるほど医療費が増え、医療産業が潤う。予防にはインセンティブが働きにくい。

これは陰謀論ではなく、制度の構造的な問題です。

日本の医療制度は「出来高払い」が基本です。患者を診れば診るほど、検査をすればするほど、薬を出せば出すほど、医療機関の収入が増える。一方、「患者を健康にして来院させない」ことには、経済的インセンティブがほとんどありません。

特定健診(メタボ健診)は2008年に導入されましたが、その効果については議論が続いています。特定保健指導を受けた人の一部に行動変容が見られるものの、対象者のうち実際に指導を完了する割合は約25%にとどまっています[11]。

一方で、いくつかの保険者(健康保険組合)は独自の予防プログラムを展開し、成果を出し始めています。データヘルス計画に基づき、レセプト(診療報酬明細書)と健診データを突き合わせて、ハイリスク者を特定し、個別に介入する。こうした「攻めの予防」が、医療費の伸び率を抑制している事例が報告されています。


国際比較。日本の「予防投資」は足りているか

OECD(経済協力開発機構)のデータによると、日本の予防医療への支出は医療費全体の約3%です[12]。OECD平均の約3.1%とほぼ同水準ですが、カナダ(約6%)やイギリス(約5%)と比べると低い。

しかし、より重要な問題は「3%の中身」です。日本の予防医療支出の多くは、予防接種や検診に向けられており、「身体活動の促進」「運動処方」に直接投じられている予算は極めて限られています。

フィンランドの北カレリアプロジェクトは、1970年代に始まった地域ぐるみの生活習慣改善プログラムで、30年間で心臓病の死亡率を80%削減するという驚異的な成果を上げました[13]。このプロジェクトの核は、食事の改善と身体活動の促進でした。

北カレリアの成功が示しているのは、「予防は効く。ただし、長期的かつ包括的に取り組めば」ということです。


「しかたない」で済ませていい数字か

でも、社会全体で見れば、1兆円の予防投資で数兆円の医療費が削減できる可能性がある。この視点を忘れてはいけません。

15兆円は、「しかたない」で片付けていい数字ではありません。

高齢化が進む日本では、このまま何もしなければ医療費は2040年に約68兆円に達するとの推計もあります[14]。現役世代の負担は限界に近づきつつあり、社会保障制度の持続可能性が問われています。

「運動で医療費を削減する」というのは、一見すると楽観的すぎる主張に聞こえるかもしれません。しかし、DPP研究、北カレリアプロジェクト、日本各地の自治体の実証例が示しているのは、「生活習慣の改善は、社会レベルで医療費を押し下げる力を持っている」という確かなエビデンスです。

問題は、「やるかやらないか」ではなく、「どうやって社会全体で実行するか」です。

15兆円は、「しかたない」で片付けていい数字ではありません。

この章のポイント

  • 生活習慣病の年間医療費15兆円+メンタル経済損失7兆円=合計22兆円。主要予算に匹敵する規模
  • DPP研究:生活習慣改善(食事+運動)で2型糖尿病の発症リスクが58%低下。薬より効くことがある
  • 高血圧4,300万人。集団血圧が2mmHg下がるだけで脳卒中死亡率が約10%低下する
  • フィンランド北カレリアプロジェクトは30年で心疾患死亡率を80%削減。予防は長期で効く

参考文献 [1] 厚生労働省. 令和3年度 国民医療費の概況. 2023. [2] 国立がん研究センター. がんの原因と予防. 科学的根拠に基づくがん予防. 2022. [3] 日本糖尿病学会. 糖尿病の医療経済に関する報告書. 2020. [4] 日本透析医学会. わが国の慢性透析療法の現況. 2022. [5] 慶應義塾大学. メンタルヘルスの経済的損失に関する研究. 2020. [6] Diabetes Prevention Program Research Group. Reduction in the incidence of type 2 diabetes with lifestyle intervention or metformin. N Engl J Med. 2002;346(6):393-403. [7] Diabetes Prevention Program Research Group. 10-year follow-up of diabetes incidence and weight loss in the DPP Outcomes Study. Lancet. 2009;374(9702):1677-1686. [8] 日本高血圧学会. 高血圧治療ガイドライン2019. ライフサイエンス出版; 2019. [9] Cornelissen VA, Smart NA. Exercise training for blood pressure: a systematic review and meta-analysis. J Am Heart Assoc. 2013;2(1):e004473. [10] Lewington S, et al. Age-specific relevance of usual blood pressure to vascular mortality. Lancet. 2002;360(9349):1903-1913. [11] 厚生労働省. 特定健康診査・特定保健指導の実施状況. 2022. [12] OECD. Health at a Glance 2023. OECD Publishing; 2023. [13] Puska P, et al. The North Karelia Project: 20 year results and experiences. National Public Health Institute; 1995. [14] 内閣府. 2040年を見据えた社会保障の将来見通し. 2018.


この記事は連載「なぜ動く人は、幸せそうなのか」の第23回です。 前回 → 第22回「運動習慣で医療費5〜7万円/人が消える」